瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

結局はサティだが

2008年11月29日 | 瞑想日記
私のなかで「白鳥」や「白鶴」のイメージに結びついている行為のあり方は、かんたんに言ってしまえば、エゴに汚されない行為、さらには「無私の行為」ということになるだろう。しかし、「無私の行為」という表現は、あまりにもきれいすぎて言葉だけの空疎な響きをもつ。何も、自己犠牲的なヒロイックな行為を指しているのではない。普段の生活のなかの永続的な営みをどれだけエゴの影響なしに行えるかという問題なのだ。ただそれだけなのだ。そのようなあり方に強く惹かれている。しかし現実にはそのようなあり方から程遠いと感じる。

なぜ強く惹かれるのか。自分の魂の奥にある何かが呼び覚まされるのかもしれない。もうひとつ、行為がそのようなものであれば、俗の世界にいながら、日常の営みそのものが「行」になるということにも引かれているようだ。「行」は悟りのための手段ではなく、ひとつひとつの行為がエゴの世界を超えるているという意味での「行」だ。

具体的に日々の行為で何をどうチェクしていけばよいのか。自分は「いま」を目的のための手段にしていないか、障害とみなしていないか、と問い続けるのもひとつの方法だろう。他にもいろいろな問いかけ方があるかもしれない。この行為を何か他の目的のための手段としていないか、別のやりたいことをするために速く済ませたい「いやな仕事」とみなしていないか。これをすれば誰かの評価を得られるという意識で動いていないか等々。

先ほど洗濯物を干していたときも、ついつい早くすませてパソコンに向かいたいと思ったりした。しかし、ベランダで暖かい午後の陽射しと少し冷たい風のなかで気持もよかった。他のやりたいことをするための障害と感じていたら、それを自覚化する。あとはやはり、思考を追わずひとつひとつの動作に集中することだろう。要するに一つ一つの行為をどれだけサティしながら行えるかという問題にいきつく。しかし、「白鶴」の夢からのメッセージが、結局は日々の行為でのサティに結びついているということをしっかりと確認するだけでも意味がある。
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