瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

「私」という幻想

2005年07月29日 | 瞑想日記
◆「私」という幻想
どう考えてもやはり、私が私であることの根拠は何もない。たとえ輪廻があったにせよ、輪廻する私を何代さかのぼったとしても、私がなぜ私なのかを説明することはできないし、私が私であることの根拠を提示することもできない。

しかし、世界を経験する、その経験の中心としての主観性はある。(経験の中心としての主観性を、脳科学は、どうあがいても説明できない。)世界を経験する主観は、経験主体にとって唯一のものとして経験される。

その唯一性が「私」の根拠ではないのか。確かに、いまここで世界を経験している、その中心を基盤として「私」があるのだが、その経験の中心を、これこれという性格と属性をもった「石井のぼる」という名の「私」とアイデンティファイする根拠は何もない。そこに確実にあるのは、ただ純粋主観性だけなのである。

純粋主観性は、経験を成立させる場として以外には、元来、どんな規定も限定もない。本性上、それはタブラ・ラサ(白紙)なのである。ただし、事実上は、生来の身体的条件や遺伝的性質が、もともと何らかの限定として働くかもしれない。しかし、その純粋な経験の場に、「私」とそれに関係するもろもろの規定が書きこまれていくのは、白紙の上に気まぐれに描かれる落書きのようなものだ。それほどにはかない「私」という幻想。実際に「私」という幻想から自由になれているわけではないが。

◆瞑想
昨日、今日と朝の瞑想。今は出勤時間が少し遅いので、瞑想の時間をとれる。最近、帰宅したあと夕食までの時間に間食をしてしまうことが多い。
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