瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

同一化を緩ませる瞑想

2011年10月22日 | 瞑想日記
自分の読書ノートを振り返っていて、印象に残った言葉を見つけたので再録しておく。最近、精神世界系の本はあまり読んでいないが、やはりこうした言葉にときどき刺激されることも必要だと感じた。引用もとの二つの本もざっと読み返してみたい。


「私たちが本当はいかに愛すべき存在であるかを発見するためには、最も深いレベルで自分自身を露にする必要があります。私たちが自分の真の性質を求めて深く掘り下げるならば、そこに見出すものは暗闇ではありません。果てしない光がそこにあります。それは、エゴが私たちに見つけてほしくないものです。」(『愛への帰還―光への道「奇跡の学習コース」』)

果てしなき光を見出すことは、エゴの死を意味するからこそ、エゴはそれに抵抗する。自分の真の性質を求めて掘り下げていく旅は、私にとって魅力的だが、一方でエゴである私がそれに抵抗している。

「われわれは一瞬一瞬、心に浮かんでくるものと同一化し、それが浮かんでいる空間に目を向けることはめったにないため、自分の本性に気づかない。そして、蜃気楼から蜃気楼へと、瞬間的心から瞬間的心へとよろめきながら、『この欲望が私だ』『この心が私だ』『この渇望が私だ』という感覚に自分を見失っているのである。」(『めざめて生き、めざめて死ぬ』)
 
「‥‥すべての変化する形態がそこから発生する、あの広大無辺に意識を集中しはじめるなら、われわれは思考を超えて見るようになる。迷妄の心のたえず変化する衝動の背後に、平等観と慈しみにあふれた無執着の目で、通り過ぎる一切のものを目撃している静謐があることを理解するのである。」(同上)

一瞬一瞬、心に浮かんでくるものと同一化している私たち。しかし瞑想は、まがりなりにもそのその強固な同一化をゆるめてくれる。瞑想中にも頻繁に同一化は起こる。しかし、「あ、同一化していたな」と気づきやすくしてくれるのが瞑想だ。瞑想を毎日続けていくことは、「この心が私だ」という無自覚な同一化から解き放たれる可能性を広げる。



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