瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』02

2011年10月05日 | 読書日誌
引き続き、『意識のスペクトル 1』の章ごとに要約

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第1章 意識のスペクトル(続き)

自我のレベルと実存のレベルとは、一体となって個別の自立した個人という一般的な感覚を構成する。たいていの西洋的なアプローチが着目してきたのは、これらのレベルである。それに対し、東洋の哲学はおおむね心のレベルにより大きな比重をおき、自我中心のレベルを一顧だにせずにやり過ごしてしまう傾向がある。つまり、西洋の心理療法は個人の自我を「取り繕う」ことを目指すのに対し、東洋のアプローチは自己を超えることを目指すのである。(p12)

ほとんどの西洋的アプローチの表向きのねらいは、自我の強化、自己の統合、自己イメージの矯正、自信の確立、現実的目標の設定などと説明される。これに対し、おおかたの東洋的アプローチの中心をなす目的は、自我を強化することではなく、完全かつ全面的に自我を超越し、解脱、絶対者の徳、悟りを獲得することにある。(p15)

(以下、心のレベルに対する西洋人の否定的な先入観に対して) ヴェーダーンタとか禅とかいった東洋の教えは、理論でも哲学でも、心理学でも、宗教でもない。それらは何よりも、厳密に科学的な意味で、ある種の実験の組み合わせなのである。それらは一連の規則や指示を含んでいる。そういった規則は、正しく実行に移されれば、心のレベルを発見する手引きになる。‥‥われわれが心や絶対や神秘的自覚について語るとき、純粋に思弁的な観点から語っているのではなく、実験的に獲得されたデータを述べているにすぎない。(p17・18)

意識のスペクトル論をモデルとして使うことによって、互いに矛盾しあうことが多い複雑に入り組んださまざまな心理学的システムのなかに、何らかの秩序、内的論理、あるいは道筋を見出すことができるだろう。‥‥もし、意識のスペクトルやその主要テーマに寄与する偉大な形而上学的伝統に何らかの真実があるとすれば(洋の東西の)さまざまな心理療法の学派はめいめい異なったスペクトルのレベルに主眼を置いているということが即座に明白になる。(p23)

「永遠の心理学」にしたがうなら、個人的な自己を(ある意味で)幻想と、そしてそれが住む世界を夢と見なさざるを得ない。一方、東洋的な教えがこの夢からわれわれを目覚めさせることができるとしても、それまでの間、西洋のそれは夢が悪夢になることを防いでくれるだろう。(p24)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 思考と瞑想の心理学12:忘れ去... | トップ | 同一化を緩ませる瞑想 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書日誌」カテゴリの最新記事