今はもう紛失してしまったが、ホッベマの「ミッデルハルニスの並木道」という絵が好きで、額縁に入れて飾っていた。それは、新聞の日曜版で、名画の紹介をしていた連載の図版である。1970年代の後半だったか、そのころはまだ珍しかったカラー版で、新聞紙1面の2分の1ほどの大きさだった。
空に伸びるポプラの樹影が、私が子供のころ通っていた小学校の運動場のと似ていて、とても好きだったのである。あの青空には、まだ見ぬ未来に対する、ワクワクする明るい風が吹いていた。1980年前後にもう一度同様の図版記事が掲載されて、それをつい数年前まで大切に持っていた。
切り抜きなので、何となく書棚の上の、隠れたようなところにこっそり飾っていたのだが、それはまた、のちに別な意味で、自らを戒めとする絵にもなっていた。
この絵が創作されたとされた年代が、考証の結果、訂正されることとなったからである。それは、遠景に描かれた役場の施設が、当初の制作推定年代ではまだ、建設されていなかったということが、のちの研究者によってわかったからだそうなのだ。
これは、歴史を伝えていく者は、常に、既成観念や単一の文献を鵜呑みにしないで、地道にいろいろ調べたほうがよいよ、という自分を戒める類例になっていて、単に好きだった風景が、さらに思い入れのある特別な一枚の絵となった。
平成の4年ごろ、浅草からの帰り道の地下鉄の車中で、何となく会話が途切れて、ドアの上の地下鉄路線図を見ていたとき、同道していた知人が「日本橋って前は江戸橋って言ってませんでしたっけ?いつの間に日本橋になったんだろう」と言った。
そうそう、そうでしたよ、確か、昭和通りのほうの駅は、江戸橋でしたよね。
そのとき私は、自分が持っていた1970年代後半の地図の絵面を思い浮かべてそう答えた。そのときはそのままになってしまったが…。
…江戸橋駅が、いつのまに、どうして日本橋駅に変わってしまったのだろう。
気になる。
空に伸びるポプラの樹影が、私が子供のころ通っていた小学校の運動場のと似ていて、とても好きだったのである。あの青空には、まだ見ぬ未来に対する、ワクワクする明るい風が吹いていた。1980年前後にもう一度同様の図版記事が掲載されて、それをつい数年前まで大切に持っていた。
切り抜きなので、何となく書棚の上の、隠れたようなところにこっそり飾っていたのだが、それはまた、のちに別な意味で、自らを戒めとする絵にもなっていた。
この絵が創作されたとされた年代が、考証の結果、訂正されることとなったからである。それは、遠景に描かれた役場の施設が、当初の制作推定年代ではまだ、建設されていなかったということが、のちの研究者によってわかったからだそうなのだ。
これは、歴史を伝えていく者は、常に、既成観念や単一の文献を鵜呑みにしないで、地道にいろいろ調べたほうがよいよ、という自分を戒める類例になっていて、単に好きだった風景が、さらに思い入れのある特別な一枚の絵となった。
平成の4年ごろ、浅草からの帰り道の地下鉄の車中で、何となく会話が途切れて、ドアの上の地下鉄路線図を見ていたとき、同道していた知人が「日本橋って前は江戸橋って言ってませんでしたっけ?いつの間に日本橋になったんだろう」と言った。
そうそう、そうでしたよ、確か、昭和通りのほうの駅は、江戸橋でしたよね。
そのとき私は、自分が持っていた1970年代後半の地図の絵面を思い浮かべてそう答えた。そのときはそのままになってしまったが…。
…江戸橋駅が、いつのまに、どうして日本橋駅に変わってしまったのだろう。
気になる。