長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

変わる鑑定と「おみくじの天才」

2010年04月26日 21時21分04秒 | フリーク隠居
 「有為転変の、世の中じゃなぁ…」で、チョンと柝が入って幕。あれは何のお芝居だったかしら。本当に、世の中に変わらないものなんてないのだ。
 若いころは世の中が光り輝いて見えていたから、絶対とは思わないまでも、中央通りの石造りのビルとか、街の繁栄とか、何となく、いつまでもそのまま在り続けるような気がしていた。享受した歳月しか経験していないのだから、短い年数のスパンでしか想像できないのも仕方ない。
 これは特に「なんでも鑑定団」などを毎週欠かさずご覧になっているお方なら、すでにお気づきのことだろう。宝物の価値すらも、個々人の思惑とは関係なく、各時代の需要と供給によって恐ろしいほど変わる。

 …なんてことを、ここ数年、再び建て替わって変容していく街並みを目の当たりにして、世の中なんて、あ、やっぱり、ただ風が吹いていくだけのようなもんだったんだ…なんて心境になっていた。
 …ところへ、戦国武将占いである。今を去る十年ちょっと前の1998年ごろ、世の中は動物占いの全盛期だった。いまや数年前に流行った山手線占いなど、多種多様な占いが出て、それこそ群雄割拠の戦国時代の様相を見せる、キャラクター占い市場だが、その先鞭をつけたのが、たしか、どうぶつ占いである。その二匹目のどじょうを狙って、十年前の当時、いろいろな占い本が出ていた。
 そのひとつに『戦国武将占い』があって、たしか、文春文庫で「ビジネス社会を戦国武将の知恵で切り抜ける」…とか何とかいう惹句が帯についていた。
 こりゃー面白い!と思って、私は関係者でも何でもないのに、何冊か買って知り合いに配った。しかし、知人たちはンーでもなく、スーでもなく。何の反応もなかった。同時期に『江戸しぐさと江戸ことば』という新書判の本も気に入って、同様に配ったが、みな同様に無反応だった。そしてまた、これらの本が当時は、爆発的に売れた様子もなかった。
 …どうやら私の流行りもの、マイ・ブームは、先見の明というよりも早すぎて…というか独特すぎて、常に何年もの幅で世間とズレているのだった。

 そして、何年かの時を隔てて、戦国武将占いが俄然、世の中の流行りものとなった。先年、私が同じものを配った欧米文化の申し子のような方々は、そんなことはすっかり忘れて、いまや和物礼賛に変節していた。
 …花川戸のお兄いさんなら「こりゃまた、何のこってェ」と啖呵を切るだろうが、私は、いったん捨てられて忘れ去られ、一部の人々の嗜好品のようになってしまった日本の文化が、やっと日の目を見て、復権して、万人に受け入れられたような気がして嬉しかった。

 さてさて、十数年前にはマイナーな占いだった、そのときの私のキャラクターは「独特の価値基準を持つマイペースな風雅の人」とかいう短評で気に入っていた、伊達政宗だったのだが、歳月を経て再び鑑定してみたら、ぜんぜん違った上杉景勝になっていた。
 …ええっ!!と、A型がB型に変わったほどもビックリしてよく調べてみたら、キャラクターが38もあるという、算定方法は同じだが、ぜんぜん別物の、新しい占いだったのだった。

 …そういえば私は、引くおみくじ、引くおみくじ、すべて大吉であるという「おみくじの天才」だったことがある。
 1970年代の山上たつひこのギャグ漫画に、「宝くじの天才」とでもいうような子供の話があった。ある貧しい家庭に赤ちゃんが生まれるが、なんと一家の不幸を真逆にいくようなラッキーな赤ちゃんで、生まれた産院ではキリのいい千人目ということで景品をもらい、育っていくにつれ商店街のくじ引きでは特賞を、しまいには巨額の宝くじに大当たり…というようなツキまくりの子供の話だった。それが、山上たつひこの、あの人畜無害のような善人面のキャラの闊歩によって爆笑を誘うのだった。オチは忘れてしまったが、私はその伝でいくと、おみくじの天才だった。
 「一番、大吉」なんて神籤を引くと、天下を取ったような、この上もなくイイ心持ちになるのだから、人間なんて可愛いもんだ。

 あるとき、とある有名なお寺で、例によって一回で決めるつもりでおみくじを引いた。…凶だった。こんなはずは…と思い、再び引いた。凶だった。こうなると意地で、もう一度引いた。三度、凶だった。さすがにそれでやめた。本能寺前夜、三度神籤を引きなおした光秀の気持ちがわかった…ような気がした。

 「くじ」と名がつくものに関わるとき、私は今でも、ちらと心の錆にざらっと触れたような、若干の罪悪感を感じる。これは、射幸心をいましめる、昭和の道徳教育のなせるところなのだろう。
 努力もせずに、まぐれあたりに期待するなんて、占いの結果に一喜一憂するなんて、ましてや自分の行動の決定権を委ねるなんて。
 そしてまた、勤労の代価をそんなものに費やすなんて…と昭和の堅気の一般家庭ではそういうのが通念だった。公営の博打が市民権を得た現代では、そんなことを感じる若者はいないのだろうけれど。
 …そしてまた、そこまで重く考えることもなく、万事が軽い気持ちで行われるのが当世なのだろうけれど。
コメント
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