長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

江州・彦根城

2010年04月08日 12時00分32秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 一見赤ヘルの彦にゃんが出没する、最近の彦根城のことは知らない。
 私が城めぐりをしていたのは、昭和の終わりから平成のひとケタ時代のことである。歴女が武将コスプレをして城巡り、というのが昨今の流行りらしいが、そんなこと、あたしゃあ、ずっーっと何年も前からやってましたンです…ロケット団の負けず嫌いの人みたいになってますがね(あっつとぉ、訂正。コスプレはしてません)。
 そのころの古城の何がよかったかというと、つわものどもが夢のあと…というような、もはや、世間からは忘れ去られ、朽ち果てて、歳月にさらされた石垣の縁が、雑草や土に埋もれながらひっそりとたたずんでいる風情が、実にイイのである。
 人間のあらゆる業…天下を取りたい、人の上に立ちたい、豪勢な生活をしたい、権柄づくで他人をひざまずかせたい…etc.というような、願望渦巻く象徴の牙城的存在であった過去の成り立ちのことは、もはやすっかり忘れて、そんなこととは無関係に、夢見るように、ほのぼのとした雰囲気を漂わせ、自分の一部となった木々に訪れる小鳥のさえずりなんかを聞きながら、のんびり陽ざしを浴びて佇んでいる。三橋美智也でなくとも、一節、呻りたくなるものであろう、というものだ。
 平成の初年頃、初めて訪れた彦根城は、まだ大改修前で、しかし、さすがに国宝彦根城の天守は立派で美しく威容を放っていたが、本丸や三の丸の郭の縁は、いい具合に崩れていて、のんびりと花見客が、なぜだか沖縄民謡のようなものを踊っていた。
 お城だけでなく、彦根のご城下も、何とも言えない風情があって、ベンガラ格子の町屋とか、いい感じで時代がついていた。養花雨のそぼ降る市街を行けば、先代の鴈治郎そっくりのお坊さんが僧衣の裾をたくし上げて、下駄ばきで濠外の大道の水溜りを跨いでいたりして、関東者としては、惚れ惚れする町並みだった。
 お城の本丸のお庭に、水戸市からだったか、水戸藩士子孫の会だったかの寄贈で「友好の梅の木」というものが植えられていたのにはびっくりした。そんな昔のこと…とか思っていたけれど、あの折の遺恨、今でもそうなのか、と衝撃だったのである。
 安政の大獄で、十三代将軍継嗣争いの相手方・慶喜派を一掃した井伊直弼は、しかし、安政七年の雛の日に、桜田門で頸刎ねられてしまう。
 それから幾日も経たない三月十八日に万延に改元されているけれど、その万延もたった一年足らずで文久に変わる。CMでお馴染みの老舗のカステラ屋さんだったか、佃煮屋さんだったかがこのころ創業したわけで、西暦にすると1860年前後のことである。
 暦を見ると、万延元年は、閏月が三月に有った。ということは、井伊直弼が卒した三月三日は、今の暦と同じぐらいの感覚の三月三日で、ずいぶん寒かったのだろう。雪が降ってしまったのもむべなるかな…。
コメント
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