昭和の歌謡映画みたいな表題になってますが…。
歌舞伎座の本当に本当のさよなら公演、平成22年4月公演の切符が取れない、ということで、私は諦めていた。
思えば昭和の50年代後半から三十年近く、よくまあ芝居に通ったものだ。特に、平成2年、今は亡き紀伊国屋の「女鳴神」の雲絶間之助に魅入られてから、月に幾たびとなく通うようになり、今世紀になってその熱が衰えたとはいえ、考えてみたら、三月と空けて歌舞伎座に行かなかった日はなかった。
知人からは、こうなると、ことさら感慨深いのではないか、と水を向けられたが、これまでも何回となく建て替えの話が出ては消えしていたし、もう遠い日の夏の花火みたいに感じる…とか、偏屈な隠居のような返事をしていた。
実際、昭和から今まで、自分が好きだった寄席、映画館など何軒となく閉場していったが、最終日に立ち会うということは、前の池袋演芸場が建て替えの際に閉まった時以外、まったくなかった。池袋の最終日、売店の名物売り子さんだった松本のオバちゃんが「みんな、最後だから持ってってね~~」と独特の言葉尻で、下足の木札を配っていた。しかし、私はもらわなかった。なんだか屍に群がるハゲタカのようになるのが厭だったのだ。
…そんなわけで、このたびも、そうと知らぬ間に別れて、それが今生の別れになりました…というように、サラリといきたかったので、ことさら別れを告げるのを諦めていた。
ところが番頭さんが骨を折ってくださって、思いがけなく4月公演に行けることになった。最後の歌舞伎座だ。
その日はあいにく、冷たい氷雨が降っていた。歌舞伎座へのはなむけに絶対着物でいこうと思っていたが、洋服に変更した。そういえば、昔、台風の日に芝居に行って、歌舞伎座の玄関先で長靴を履きかえたことがあったっけ。偶然同日になった後援会の知人が、あ、あたしも一緒だ、と笑ったのだった。彼女、今どうしているだろう。
番頭さんが手配してくださった切符は、なんと2階の東の桟敷なのだった。劇場のいろいろな席からどう観え方が違うのか…なんてことを密かに研究してみたこともあったので、2階の桟敷も座ったことがあったが、それは奥の桟敷だった。
それだけで、もう、私は感激してしまった。1階の桟敷は照明も当たるし、舞台の一部分のようであるから役者からも客席からもよく見えて、気恥ずかしい。その点、2階の桟敷は見晴らしもよく、東ということで花道もよく見え、他人を意識することもなく、ことさらに気持ちがいい。
この僥倖は、ひょっとすると、この二十年余りの忠孝皆勤への芝居の神様からのボーナスなんじゃないかしらん、と、驚喜で頭がクラクラしながら、まだ定式幕の舞台や、ざわめいている客席を俯瞰していたら、突如、この一つ上の階の、3階の東の袖の席に、若い時分、やたらと座っていたことを想い出した。
三等席で、幕見を除けば歌舞伎座で一番安い席にも関わらず、東の袖は花道がよく見えるのだ。バブルで一等席から先に売れていた時代、私はこの席の確保に必死だった。質より量、切符をいかに算段するかに、日々腐心していた。
それからずいぶん歳月が過ぎ、私も歌舞伎座も、いろいろ変った。
いつだったか、「め組の喧嘩」で鳶職の総見があって、半纏にパッチ姿、信玄袋を提げたおにいさんと2階の廊下ですれ違った。かっこよかったなぁ。…そうそう、2階のジュースコーナーに、秋吉久美子に顔が似ているのにやたらと不愛想だった売り子のおねえさんがいたっけねぇ。1階の喫茶室ではまだ総理大臣になる前の、自由人・小泉代議士をよく見かけた。
舞台は終幕の「助六」が開いていた。次々と当代の役者が出てくる。一人ひとりに、あのときはこうだった、あんな役もやっていたなあ…と、それこそ、走馬灯のように、芝居のいろいろな場面、歌舞伎座での出来事が浮かんでくる。そしてまた、この役は、今は亡きあの人がよくやっていたなあ、と、次から次へと、その姿が瞼に映る。
いつの間にか私は妙な興奮状態に陥り、涙をぼろぼろこぼしていた。…「助六」でこんなに泣くなんてあり得ない。たぶんこれが今生の最初で最後だ。1階で間近に役者の顔を見るよりも、ちょっと離れた2階から巨人の星の明子姉ちゃんのように、そっと眺めていると、ワタシノ歌舞伎座年表…のようなものが、ますます脳裏に翩翻とたなびき、あの時この時がよぎっていく。
それからずっと、初めて担任した生徒たちを送り出す卒業式でのごくせんか、一人娘を嫁にやる父親のように、終始ぐすぐすしくしくしていたのだった。
こうして当代の役者たちを、歌舞伎座のこの舞台で観るのも、今宵が限りだ。
それぞれのひっこみの背中に拍手を送りながら、中村屋の通人の「親父の祥月命日にまたぁくぐらされるとは…」に爆笑し、いつしかいつものように芝居に引き込まれて、私は思う存分泣いたり笑ったりしていた。それで、すっかり気が晴れた。
ハネてみれば、空は雨だが、心は晴れだ。そして、いつものように、なんだかほのぼのとして、あぁ、芝居って、いいもんですねぇ…と独りごちながら歌舞伎座を後にしたのだった。
主人が居なくなってしまった1階の会長室の扉のわきに、大きな時計があった。記憶では振り子時計だったが、今日見たら違っていた。帰り際にしみじみと見てみた。大きな文字盤の下に、碑文が刻まれていた。
「わが刻はすべて演劇 大谷竹次郎」
……そうだった。この二十年余りというもの、自分もそうだったのだ、と、私は深く、吐息した。
歌舞伎座の本当に本当のさよなら公演、平成22年4月公演の切符が取れない、ということで、私は諦めていた。
思えば昭和の50年代後半から三十年近く、よくまあ芝居に通ったものだ。特に、平成2年、今は亡き紀伊国屋の「女鳴神」の雲絶間之助に魅入られてから、月に幾たびとなく通うようになり、今世紀になってその熱が衰えたとはいえ、考えてみたら、三月と空けて歌舞伎座に行かなかった日はなかった。
知人からは、こうなると、ことさら感慨深いのではないか、と水を向けられたが、これまでも何回となく建て替えの話が出ては消えしていたし、もう遠い日の夏の花火みたいに感じる…とか、偏屈な隠居のような返事をしていた。
実際、昭和から今まで、自分が好きだった寄席、映画館など何軒となく閉場していったが、最終日に立ち会うということは、前の池袋演芸場が建て替えの際に閉まった時以外、まったくなかった。池袋の最終日、売店の名物売り子さんだった松本のオバちゃんが「みんな、最後だから持ってってね~~」と独特の言葉尻で、下足の木札を配っていた。しかし、私はもらわなかった。なんだか屍に群がるハゲタカのようになるのが厭だったのだ。
…そんなわけで、このたびも、そうと知らぬ間に別れて、それが今生の別れになりました…というように、サラリといきたかったので、ことさら別れを告げるのを諦めていた。
ところが番頭さんが骨を折ってくださって、思いがけなく4月公演に行けることになった。最後の歌舞伎座だ。
その日はあいにく、冷たい氷雨が降っていた。歌舞伎座へのはなむけに絶対着物でいこうと思っていたが、洋服に変更した。そういえば、昔、台風の日に芝居に行って、歌舞伎座の玄関先で長靴を履きかえたことがあったっけ。偶然同日になった後援会の知人が、あ、あたしも一緒だ、と笑ったのだった。彼女、今どうしているだろう。
番頭さんが手配してくださった切符は、なんと2階の東の桟敷なのだった。劇場のいろいろな席からどう観え方が違うのか…なんてことを密かに研究してみたこともあったので、2階の桟敷も座ったことがあったが、それは奥の桟敷だった。
それだけで、もう、私は感激してしまった。1階の桟敷は照明も当たるし、舞台の一部分のようであるから役者からも客席からもよく見えて、気恥ずかしい。その点、2階の桟敷は見晴らしもよく、東ということで花道もよく見え、他人を意識することもなく、ことさらに気持ちがいい。
この僥倖は、ひょっとすると、この二十年余りの忠孝皆勤への芝居の神様からのボーナスなんじゃないかしらん、と、驚喜で頭がクラクラしながら、まだ定式幕の舞台や、ざわめいている客席を俯瞰していたら、突如、この一つ上の階の、3階の東の袖の席に、若い時分、やたらと座っていたことを想い出した。
三等席で、幕見を除けば歌舞伎座で一番安い席にも関わらず、東の袖は花道がよく見えるのだ。バブルで一等席から先に売れていた時代、私はこの席の確保に必死だった。質より量、切符をいかに算段するかに、日々腐心していた。
それからずいぶん歳月が過ぎ、私も歌舞伎座も、いろいろ変った。
いつだったか、「め組の喧嘩」で鳶職の総見があって、半纏にパッチ姿、信玄袋を提げたおにいさんと2階の廊下ですれ違った。かっこよかったなぁ。…そうそう、2階のジュースコーナーに、秋吉久美子に顔が似ているのにやたらと不愛想だった売り子のおねえさんがいたっけねぇ。1階の喫茶室ではまだ総理大臣になる前の、自由人・小泉代議士をよく見かけた。
舞台は終幕の「助六」が開いていた。次々と当代の役者が出てくる。一人ひとりに、あのときはこうだった、あんな役もやっていたなあ…と、それこそ、走馬灯のように、芝居のいろいろな場面、歌舞伎座での出来事が浮かんでくる。そしてまた、この役は、今は亡きあの人がよくやっていたなあ、と、次から次へと、その姿が瞼に映る。
いつの間にか私は妙な興奮状態に陥り、涙をぼろぼろこぼしていた。…「助六」でこんなに泣くなんてあり得ない。たぶんこれが今生の最初で最後だ。1階で間近に役者の顔を見るよりも、ちょっと離れた2階から巨人の星の明子姉ちゃんのように、そっと眺めていると、ワタシノ歌舞伎座年表…のようなものが、ますます脳裏に翩翻とたなびき、あの時この時がよぎっていく。
それからずっと、初めて担任した生徒たちを送り出す卒業式でのごくせんか、一人娘を嫁にやる父親のように、終始ぐすぐすしくしくしていたのだった。
こうして当代の役者たちを、歌舞伎座のこの舞台で観るのも、今宵が限りだ。
それぞれのひっこみの背中に拍手を送りながら、中村屋の通人の「親父の祥月命日にまたぁくぐらされるとは…」に爆笑し、いつしかいつものように芝居に引き込まれて、私は思う存分泣いたり笑ったりしていた。それで、すっかり気が晴れた。
ハネてみれば、空は雨だが、心は晴れだ。そして、いつものように、なんだかほのぼのとして、あぁ、芝居って、いいもんですねぇ…と独りごちながら歌舞伎座を後にしたのだった。
主人が居なくなってしまった1階の会長室の扉のわきに、大きな時計があった。記憶では振り子時計だったが、今日見たら違っていた。帰り際にしみじみと見てみた。大きな文字盤の下に、碑文が刻まれていた。
「わが刻はすべて演劇 大谷竹次郎」
……そうだった。この二十年余りというもの、自分もそうだったのだ、と、私は深く、吐息した。