長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

音の風景

2010年04月27日 11時00分03秒 | お稽古
 今も存続しているだろうか。昭和の終わりごろよく聴いていたNHK・FMの「音のある風景」という番組が好きだった。記憶だけで書いているので間違っていたらごめんなさい。
 …踏切のカンカンという鉦の音、通り過ぎていく列車の風音、連結部の軋み、レールの響き。またあるときは、風鈴の音色、物売りの商い声……。
 さかしい、無遠慮な説明は一切ない。ラジオの音だけの放送で、収録してきたその景色と世界を想像させる、素敵な、すばらしい発想の番組だ。これは、すべての事象を愛でる日本人の感覚ならではの産物だろう。LAのラジオ放送で、アメリカの西海岸のビッグウェーブの音をしみじみと聴く、なんて図は想像できない。

 溝口健二監督の「雨月物語」など、銀幕のなかだけで空想していた琵琶湖へ、初めて訪れてみたのは昭和の終わりごろだった。長閑で柔らかい、水と陽の光に暖かく包まれて育まれた、近江の湖のほとりがとても好きになって、それから湖畔をたびたび訪ね、訪ねるたびに、ますます好きになった。なにしろ琵琶湖は広いので、行き尽き観尽くすことがないのだった。
 生まれ育った土地である関東の雑木林も風情があって私は好きだが、歴史が浅いせいか、原生林のような鋭角的な厳しさが風景の中にある。関西の、自然の中にもすべてにすっかり人の手が入った、丸みを帯びたような景色は実に魅力的で、それはことに岡山の高梁(備中松山城)に行ったときにも感じたのだが、風景に現れる歴史の深さの違いに、感心したことがあった。

 さて、長唄「藤娘」に、近江八景が詠い込まれた部分がある。
 この、世に多くある八景ものは、本来はどんな景色でもいいというものではなく、八つの決まりごと、則るべき形式がある(それを広義に、かっきり八つではなく概数的にとらえて、四季折々の美しい花鳥風月を配して名勝を詠い込んだ「吾妻八景」という長唄の名曲もあるが、この話はまた後日)。
 原典となった中国は北宋の時代の瀟湘八景(湖南省の洞庭湖に注ぐ、瀟水と湘水の辺りのグッとくる景色を、文人画家の宋迪が八つの画題にしたもの)になぞらえて、かならず、「落雁(水辺に降り立つ雁の群れ)」、「帰帆(帆をたたんで港に帰ってくる舟)」、「晴嵐(晴れた日に吹きわたる強い山おろしの風)」、「暮雪(夕暮れ時に見える山の峰に積もった雪)」、「秋月(澄んだ秋空の名月)」、「夜雨(夜の雨)」、「晩鐘(入合いの鐘の音)」、「夕照(夕焼けが波に照り映えるようす)」の、八つの要件をつけた景色でなくてはならないのだ。

 …そして、この八つの景色のなかには、ひとつだけ仲間はずれ、というか、視点の異なる景色がある。それは何でしょう??
 はい。それは、近江八景でいえば、三井の晩鐘です。
 陽が西に沈んでいき、入合いの暮の鐘がゴーーーンと鳴る。三井寺の鐘の音の景色なのである。ほかの七景はすべてヴィジュアルの風景なのに、聴覚から、鐘の音の響きを景色と同一視して、その音色が景色に融合した、音の風景を味わうのだ。なんてファンタスティック!
 「藤娘」のこの部分は、クドキでもあり(クドキとは、歌詞に登場人物の心情が、連綿と切々と訴えるように詠み込まれている部分。たっぷり!と声がかかる、唄方の聞かせどころ魅せどころ)、その歌詞への、近江八景の詠み込ませ方の巧みさといったら、すごい。

 …♪逢わず(粟津)と三井の予言(かねごと=約束→鐘)も堅い誓いの石山に 身は空蝉のからさき(殻→唐崎)や 待つ夜をよそに比良の雪(行き) 解けて逢瀬のあだ妬ましい ようも乗せた(瀬田)にわしゃ乗せられて 文も堅田の片便り こころ矢橋のかこちごと…

 杵徳風に超訳・口語訳しますと…ほかの女には逢わないと堅く約束したのに、それもセミの抜け殻のように虚ろなことだったのか、恋にとらわれて気もそぞろにぬしの来るのを待っているのに、よそへ行くなんて、雪が解けるようなランデヴーはさぞや楽しかったのでしょうね、ああ、悔しいっ…よくもそのうまい口車に私を乗せましたね。手紙をやれども返事もなく、私の心は急かれるように苦しくて、ただ恨み嘆くばかりです…。

 近江八景にことよせて、つれない男への女ごころの愚痴を綴っている。稽古するたびに、よく出来てるよなぁ、と、ほんとうに感心してしまう。
 長唄には、何度稽古しても稽古するたびに心に響く名詞章がたくさんある。…古典って、そういうものだ。


コメント (6)
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