電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『1Q84』

2009-07-19 23:10:31 | 文芸・TV・映画

 村上春樹の『1Q84』(新潮社/2009.5.30)について少しだけ書いておく。もちろん、私が村上春樹を理解できるようになったからでもないし、『1Q84』を正しく読み解けるようになったからでもない。私は、『1Q84』を発売日の5月29日(金)に買い、31日には「Book1」も「Book2」も読んでしまった。村上春樹の長編をこんなスピードで読んだのは初めてだ。『1Q84』の世界は、私にはとても分かりやすい世界に思えた。村上春樹の小説ってこんなにわかりやすかっただろうか、というのが読後のいちばん大きな印象だった。だから、私はすぐに、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』のいわゆ三部作を読み返してみた。そして、それを読み終えるのに1ヶ月以上かかってしまった。

 そのうちに、「文学界」8月号で特集が組まれた。ついに芥川賞や直木賞は取らなかったばかりではなく、どちらかというと日本の純文学の世界からは疎んじられてきた村上春樹について、ただ『1Q84』という作品のために特集がくまれたということに対して、とても皮肉なものを感じたのは私だけではないと思った。「文学界」の「村上春樹『1Q84』を読み解く」という特集で、加藤典洋、清水良典、沼野充義、藤井省三の4人が、それぞれ勝手に村上春樹の『1Q84』について語っている。そこで、加藤典洋は、「『桁違い』の小説」という文章を書いている。

 この小説を読んでからほぼ一週間の間、これをどう思うか、どう判断するか人に語り、自分の考えを述べることを禁欲してきた。何かこの小説には「感想を言いたくない」と思わせるものがあり、それが非常に強かったので、それに従うことがそのことについて、どこかで最初に「書く」ときに大事になると感じられたからである。(「文学界」2009年8月号p216)

 ここを読んだ時には、なんだが私とよく似た感想だなと思ったが、その後がかなり違っていた。加藤は、「この小説を現在の他の日本の小説家の作品とは『桁違い』、『隔絶している』、それくらいにすばらしい」と、評価している。私は、『1Q84』は村上春樹の作品としては、処女作より後退しているのではないかと思った。もちろん、だから駄作だというわけではない。『羊をめぐる冒険』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』などを読んできた読者と『1Q84』だけを読んだ人では、明らかに村上春樹の世界に対する印象が違って見えるに違いない。。

 私の理解では、村上春樹は、小説という虚構の世界を通して、「個人」と「社会」について考えてきた作家だと思う。「個人」とは「僕」であり、「社会」はあちら側に「システム」として対峙している。村上春樹は、「システム」と「個人」の関係を描こうとして、作品の中に、謎を設定した。『羊をめぐる冒険』では、「僕」という主人公の視点から物語が描かれているので、当然「あちら側」は謎の世界である。「こちら側」は「僕」の世界であり、「あちら側」というのはいわば「羊」が作った「システム」ということだ。「社会」というのは、単に「個人」の総和ではない。多数の「個人」が作り出す「社会」は「個人」からみると、どうしても未知な部分が存在せざるを得ない。しかし、この「こちら側」と「あちら側」はどこかに穴が空いて秘かに結ばれていて、何らかの方法で行き来ができるようになっていると思われるようにできている。

 物語の基本構造は、『羊をめぐる冒険』と『1Q84』とよく似ている。ただ、「僕」の視点から書かれていた『羊をめぐる冒険』とは違って、『1Q84』は三人称で書かれ、物語の構造はより明確になり、そして細部がよりわかりやすく書かれている。細部を見る限り、青豆の世界は、「必殺仕事人」から作られた世界であり、方法的に試みられた『エンターテインメント』性の導入があり、この殺し屋の設定は、ハードボイルドというより、明らかにに日本のテレビドラマだという加藤の見解には同感だ。

 さて、こういう目鼻立ちのくっきりした小説、その芯のところ、一番大切な場所に、みすぼらしい、小さな、何でもない場面がおかれている。でも、その数秒間のできごとが、大活劇の、また人間の心の奥深くまでもぐる(『ミクロの決死圏』のような)おおきな骨格を保つ小説の全重量をささえている。そのことを考えると、「胸をしめつけられる」。(『文学界』2009年8月号/同上・p217・218より)

 勿論、ここでいわれている「何でもない場面」というのは、青豆と天吾が10歳のとき出会った場面である。「少女は長い間無言のまま彼の手を握り締めていた」という場面だ。

 この女の子がじつは堅固なスポーツジム・インストラクターでかつ特異な「キラー」でもある青豆だとわかる、後続章の何気ないくだりは、戦慄的である。
 こんな小さくちっぽけな場面の上に、二巻からなるこの大部の小説の絢爛ともいえる世界が構築されている。そう思うと私は、「胸が苦しくなる」。感想を言いたくない、とはこのことである。(同上・p218)

 ところで、村上春樹は、同じ1984年の物語を書いている。『ねじまき鳥クロニクル』という小説は、1984年の物語であり、英訳本では、「Book1 1984年6月-7月、Book2 1984年7月-10月」となっているという。同じ特集の中で、沼野充義が「読み終えたらもう200Q年の世界」で次のような指摘をしている。

『ねじまき鳥クロニクル』の発端も同じ一九八四年で、主人公の岡田亨は天吾と同じ年の三十歳。また『海辺のカフカ』のあの忘れがたい田村カフカ少年とナカタさんのコンビは、かなりの程度まで、『1Q84』における天吾とふかえりの関係に似ている。ナカタさんはふかえりと同様、この世界と異界をつなぐ存在で、ディスレクシア(読字障害)を抱えたふかえりに似て、読み書き能力を失っている。
 こういった側面をみると、村上春樹は常に一貫しているわけで(ハルキはやっぱりハルキなんだ!)、実際、還暦を過ぎたはずなのに、いつまでも若々しく、主人公の年齢を自分の実年齢に合わせて引き上げることを絶対にしないのには驚くべきことだ。ちなみに天吾の二十九歳というのは、村上春樹自身がデビュー作『風の歌を聴け』を書き始めた年であり、作家の総決算の小説で自分の出発点に今一度戻っていったとも言える。(同上・p225・226)

 おそらく、『羊をめぐる冒険』では、無意識のうちに、そして『1Q84』では意識的に作り出された村上春樹の物語の構造については、ジョセフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』と比較しながら、物語構造を解き明かしている大塚英志の『物語論で読む村上春樹と宮崎駿──構造しかない日本』の主張がおそらくいちばん当たっているように思われる。

 けれどもまるで三島由紀夫の『仮面の告白』のように乳幼児の記憶から始まり、フロイト式のファミリーロマンスやフレイザーの『金枝篇』、アーヴィングを連想させる識字障害やサヴァン症候群などいくつものどこかでみたような文学装置が今までになく動員される一方で、村上龍の『五分後の世界』をどうしても連想する枠組み、ライトノベルズの美少女もどきの青豆やふかえりといったキャラクター造形が試みられる。「文学」(「ライトノベルズ」込み)のデータベースからサンプリングされている、ということなのだろう。しかし、それらの具体的な表現は三島もアーヴィングにも、あるいは「ふかえり」であれば綾波レイには及んでおらず、しかし現在の「文学」としてみれば舞城王太郎らライトノベルズ系文学よりは成熟している。何より構造は『スター・ウォーズ』であるのだから。(『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』角川oneテーマ21/2009.7.10 p251・252)

 私は、村上春樹についていろいろなことを確かめてみたいと思っている。村上春樹が描いた物語の構造は、ある種の普遍性を持っていて、だからこそ私たちをその世界に引きずり込んでしまうのであり、また、私たちは心の片隅で、そうした世界に引きずり込まれてしまいたい誘惑を待っていたりもするのである。大塚英志は、『1Q84』に詰め込まれた雑多な通俗的な細部を否定的に見ているような気がするが、私は反対に、これほどまでの通俗的な事物を投げ込んで、大きな物語を、しかも、世界に向けて書いている村上春樹という作家に、感心してしまった。

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松とPine

2009-07-11 22:07:15 | 文芸・TV・映画

 日本語の「松」は、英語では、「pine」という。日本語では、「松」という言葉は、「待つ」という言葉と同じ音で、しばしば掛詞として利用されている。ところが、英語の「pine」にも日本語の「待つ」と同じような意味があるのを最近知った。ちなみに、手元の『小学館プログレッシブ英和中辞典』(1998年第三版)には、名詞としての「松」の意味を持つ「pine」の他に、動詞で、「思い焦がれる、切望する」という意味をもつ「pine」が載っている。これは、おそらく偶然だと思われるが、とても面白いと思った。

 二宮ゆき子が歌っていた「松の木小唄」はおそらくは誰もが知っているに違いない。

松の木ばかりがまつじゃない
時計を見ながらただ一人
今か今かと気をもんで
あなた待つのもまつのうち

 この歌の「まつ」は、英語に訳すなら、「pine」がぴったりだと思う。

 さて、私がこの「pine」について知ったのは、「松の木小唄」の返歌かと間違われそうな『百人一首』に乗っている在原行平の歌のマックミラン・ピーターによるの翻訳を読んだ時だ。行平の和歌は次のようなものである。

立ち別れ いなばの山の 峰におふる
松としきかば 今かえりこむ
(今私は、あなたとお別れして、因幡の国に行きます。でも、稲葉山に生えている松ではないですが、あなたが待っているいると聞いたら、すぐに都に帰って来ます。──筆者訳)

この歌が、マックミラン・ピーター著・佐々田雅子訳『英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ』(集英社新書/2009.3.22)の中で、次のように英訳されていた。

Ariwara no Yukihira

Though I may leave
for Mt.Inaba,
famous for the pines
covering its peak,
if I hear you pine for me
I'll come straight home to you.
(同上・p75)

 「for the pines covering its peak」という表現と「I hear you pine for me」という表現を見た時、私は驚いて辞典を調べた。そして、「pine」に二つの意味と用法があることを知ったのだ。そして、不思議な一致にしばらく呆然とした。しかし、訳者の頭の中では、おそらく日本語の「まつ」と同じように、「pine」という言葉が響いていたに違いない。もちろん、全ての読者がそういう体験をするとは限らない。日本語の和歌を知らない人は、きっと単なる「洒落」だと思うのかもしれない。しかし、その「洒落」の中に、和歌の面白さがあることも事実である。

 私には、この英詩の意味は読み取れるが、どれだけ優れたものかはよく分からない。ドナルド・キーン博士が絶賛しているところから、かなりの翻訳だと思われるが、全体的にとてもわかりやすい訳だと思った。最近時々、『百人一首』を読んでいる。角川ソフィア文庫に入っている島津忠夫訳注の『新版百人一首』と比較しながら、マックミランの訳を読んでいる。いわば、英語の勉強のつもりなのだが、このアイルランドの詩人の訳を通して、和歌の別の見方に気づかされのも面白い。また、百人の歌人たちに思いを馳せるのもまた、楽しい。

 最後に、小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」のマックミラン訳を載せておく

Ono no Komachi

A life in vain,
My looks, talents faded
like these cherry blossoms
paling in the endless rains
that I gaze out upon, alone.
(同上・p68)

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「篤姫」が終わった

2008-12-15 19:30:28 | 文芸・TV・映画

 「篤姫」の最終回は、28.7%で、これまで最高の29.2%には及ばなかったものの高視聴率を維持したままだった。「篤姫」の初回から最終回までの期間平均視聴率は24・5%だそうだが、日本人の4人一人は見ていたことになる。前年の「風林火山」が21.0%だったので、かなりすごいことだ。私も、妻と二人で、ほとんどの回を見た。妻は、着物が好きで、きれいなシーンを喜んで見ていた。私は、独特の歴史解釈を楽しんだ。いろいろな人が、いろいろな楽しみ方をできる大河ドラマだったと思われる。

 産経新聞が、「篤姫」の人気を次のように分析していた。「若々しさと明るさ」と「共演者たちの魅力」ということのほかに、ドラマの仕組みが「ディズニープリンセス大河」のドラマ構造になっていたことだという。これは、ドラマ評論家の小泉すみれさんの命名だそうだ。「主人公は愛情に満ちあふれた中で育った賢い女の子で、王子様(家定)は暗愚なふりをしているが実はすてき。描き方がすごく親しみやすい。もめ事の多い大奥でありながら周囲の動きもコミカルに描かれ、見ている人に分かりやすい」という。そして、「薩摩時代も、大奥に入ってからも、基調は『家族・親子・夫婦の絆』であり、それを前面に出した文字通りのホームドラマだったことが、成功の要因だろう」と山根聡さんが述べていた。

 「篤姫」の成功は、おそらく、この山根さんの分析の通りだと思う。ただ、私は、「篤姫」を見ながら、ドラマの展開の仕方の面白さとは別に、「家族」のとらえ方と西郷と大久保たちのとらえ方に興味を持った。「家族」についていえば、「篤姫」の家族は、女系家族なのだと思う。そして、多分、現代の家族は、母親を中心として営まれているのだ。男たちは、ある意味では脇役でしかない。これが、20代から40代までの女性たちに受け入れられた家族像なのではないかと思われる。我が家も、どちらかというと女系家族で、私の親族などは、ある意味では脇役だ。つまり、我が家は、妻や妻の母親が中心に回っている。

 益田ミリ著『結婚しなくていいですか。──すーちゃんの明日』(幻冬舎/2008.1.25)というのは、香山リカさんも「号泣」したというコミックだが、この中に出てくるのも一種の女系家族なのだ。男は、単なる脇役でしかない。だから、結婚しないということでもあるのだが、家族は母親を中心にして成り立っている。しかも、母親は育児をしたり、料理をしたりするが、女は育児をしたり料理をしたりするわけではないのだ。だから、ますますもって、女は結婚などできないことになる。ここにある「家族」論は、個と共同体との狭間にあって、揺れ動いている現代の「家族」を見事に言い当てている。

 ところで「家族」は「性」の問題だが、「個」や「共同体」は、人間の問題である。人間としてどう生きるかは「個」や「共同体」の問題であるが、「性」としてどう生きるかは家族の問題なのだ。そして、「性」の問題であるにもかかわらず、自らの「女」という「性」を拒否したところで「家族」が考えられているのだ。そこに、現在の「家族」の特色と異常さがあるのかもしれない。不思議なことに、篤姫や和宮も含めて「篤姫」の大奥には、「性」のどろどろした何かがないのだ。そして、必然的に子どもは、どこかからやってくることになる。私にはそれが不思議だった。なぜなら、大奥という所は、家定以前の場合は、徳川家の世継ぎを作るところであったはずだからだ。

 そして、「篤姫」のもう一つの歴史的な興味は、坂本龍馬を誰が殺したかということだ。小松帯刀と坂本龍馬を新しい日本を本当に考えた理想派だとすれば、まず徳川家をぶっつぶすことから始めなければ新しい時代はやってこないという、西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視たちは現実派である。最終回を除けば、大河ドラマ「篤姫」の展開では、坂本龍馬も小松帯刀もそうした現実派に吹き飛ばされてしまったという描き方がなされている。私には、「篤姫」の作り手たちは、坂本龍馬を暗殺したのは、多分西郷たちだと考えていると思われた。龍馬暗殺を指示したのが薩摩藩の西郷たちだと指摘した説はいくつかあるが、私がいちばん面白かったのは、高田崇史著『QED 龍馬暗殺』(講談社NOVELS/2004.1.10)だ。

 実際に斬ったのは、今井信郎たち見廻組だろう。しかし、彼らが龍馬の居所を知るはずもなく、また見廻組の犯行ならば暗殺という手段には訴えなかっただろう。なぜならば寺田屋事件以来、龍馬は指名手配になっていたからである。堂々と名乗りを上げるはずだ。それなのに、証拠隠滅どころか、偽の証拠まででっちあげようとした。
 一方龍馬はその頃、武力討伐派の薩摩にとって非常に邪魔な存在になっていた。しかも、徳川慶喜を養護するような態度すら見せていた。薩摩にしてみれば、これは明らかな裏切り行為だった。
 自らの転身は認めても仲間の変節は許さないのは、革命家の常だ。そこで──粛正された。(同上・p307)

 最終回の西郷隆盛や大久保利通に描き方は、ある意味では、明治維新のためになくなった人たちへの贖罪のようなものだ。明治維新が行われるまでに、新しい時代を模索していた優秀な人材がことごとく獄死したり、暗殺されたり、また病で死んでいったりして、ある意味では明治政府は明らかに人材不足だった。ドラマはシンプルさを出すために、あたかも明治政府は西郷や大久保ら数人で運営されていたかのように描かれているが、もっといろいろな人々が関わって混乱していたはずだ。そんな中で、突出した薩摩藩の人たちは、皆不幸な末路を迎えている。そういえば、次の次の大河ドラマは坂本龍馬である。そのために、布石なのかもしれない。

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『日本語が亡びるとき』

2008-11-23 21:38:17 | 文芸・TV・映画

 池袋のジュンク堂で水村美苗さんの『日本語が亡びるとき──英語の世紀の中で』(筑摩書房/2008.10.31)買って来て、急いで読んだ。と言っても、買ったのは火曜日だから、4日ほどかかって読み終えたことになる。梅田望夫さんが自分のブログで2度ほどすべての人に読むようにアピールした気持ちはよく分かる。読まずにいろいろ言うより、まず読んでみることを私もお薦めする。おそらく、水村さんも遠からず日本語は亡びると思っているのだと、私には思われた。

 ところで、水村さんの問題意識は、一つは、日本の近代文学とは何だったのかということである。そして、もう一つは、インターネットの時代に入り、英語が<普遍語>として登場した現在、日本語はどうなるのかということだ。私は、前者についての水村さんの分析は正しいと思う。私には、何故、川端康成や大江健三郎がノーベル賞を取ったのかよく分からなかったが、水村さんの分析で少し分かったような気がした。しかし、後者についての水村さんの提言には、多少注文がある。運命の予測という点について言えば、あまり違っていないとしても。

 さて、国語ということを考えるときに、「書き言葉」と「話し言葉」とは本来は全く別の発達の仕方をしたということを押さえておかなければならない。「書き言葉」は、単に「話し言葉」を書き写したものではないのだ。「書き言葉」は、むしろ「話し言葉」では通用しないからこそ、生まれたものだ。そして、「国語」とは、常に「書き言葉」の問題なのだ。「国語」というのは、言うまでもなく近代国家の誕生とともに、国民の言葉の問題として発生した。英語やフランス語、ドイツ語と同じように、極東の国でも、日本語が国語として生まれた。これが水村さんの国語に対する基本的な考え方であり、私もその通りだと思っている。

 日本の場合は、不思議なことに、国語の政策者たちの思いとは別に、漢字仮名交じり文として国語が誕生した。この漢字仮名交じり文は、一方では英語やフランス語、ドイツ語の翻訳を通して、普遍的な真理を表現する言葉として練り上げられるとともに、言文一致体として日本の和文の伝統を引き継いだ書き言葉として洗練させられていった。こうして、極東に誕生した国語としての日本語は、英語やフランス語、ドイツ語と同じように、<文学の言葉>と<学問の言葉>を二つながら内包することが可能となったわけだ。

 <国語の祝祭>の時代とは<文学の言葉>と<学問の言葉>が同じように<自分たちの言葉>でなされる時代だというだけではない。<国語の祝祭>の時代とは<文学の言葉>が<学問の言葉>を超越する時代である。非西洋国の日本においては、まさに、非西洋語で学問することからくる二重苦ゆえに、<文学の言葉>が<学問の言葉>を超越する必然が、西洋とは比較にならない強さで存在した。<国語の祝祭>の時代は、より大いなるものとならざるをえなかった。日本においては<文学の言葉>こそ、美的な重荷のみならず、知的な重荷をも負う言葉として、はるかに強い輝きを放った<国語>たる運命にあったのだった。(同上・p203)

 このすぐ後に、「そして、その強い輝きを放った<国語>は、小説から生まれ、小説を産んだ」と書かれているところを見ると、水村さんは、英語やフランス語、ドイツ語と比べるといかに日本語の特殊性として、日本の文学を、特に日本の近代小説を高く買っていることが伺える。つまり、日本語の場合は、常に、文学が主であり、学問としての言葉としてはあまり活躍していないと言っているわけだ。多分、水村さんによれば、日本語は、学問の言葉としては、常に翻訳語としてしか機能していないということになるらしい。しかし、私は、思考する言葉としての日本語は、翻訳を通してこそ鍛えられてきたのだと思う。たとえば、日本語は翻訳を通して語彙の体系を拡張してきたのだ。

 くり返すが、この世には二つの種類の<真理>がある。別の言葉に置き換えられる<真理>と、別の言葉には置き換えられない<真理>である。別の言葉に置き換えられる<真理>は、教科書に置き換えられる<真理>であり、そのような<真理>は<テキストブック>でこと足りる。ところが、もう一つの<真理>は、別の言葉に置き換えることができない。それは、<真理>がその<真理>を記す言葉そのものに依存しているからである。その<真理>に到達するには、いつも、そこへと戻って読み返さねばならない<テキスト>がある。(同上・p251)

 これは、要するに日本語の文章というのは、科学的な真理を表す限りは翻訳可能だが、文学的な価値を知るためには翻訳は不可能で日本語の表現自体を味わうほかないということを言っているわけだ。このことは、特別に日本語の特色ではない。どこの国の言葉もそうした運命をになっている。そして、母語として身につけていない限り、どの国の言葉も本当の意味では理解できないことも確かである。たとえば、短歌や俳句の音数律がその短歌や俳句に与えている微妙なニュアンスは、日本語を母語としていない限り、おそらくは分からないに違いない。さて、水村さんは、こうした論理展開の当然の帰結として、「問題はこの先いったい何語でこの<テキスト>が読み書きされるようになるかである」と考える。今は、インターネットの時代であり、「英語の世紀」である。

 <学問の言葉>が英語という<普遍語>に一般化されつつある事実は、すでに多くの人が指摘していることである。たが、その事実が、英語以外の<国語>に与えうる影響に関してはまだ誰も真剣には考えていない。<学問の言葉>が<普遍語>になるとは、優れた学者であればあるほど、自分の<国語>で<テキスト>たりうるものを書こうとはしなくなるのを意味するが、そのような動きは、<学問>の世界にとどまりうるものではないのである。<学問>の世界とそうではない世界との境界線など、はっきりと引けるものではないからである。英語という<普遍語>の出現は、ジャーナリストであろうと、ブロガーであろうと、ものを書こうという人が、<叡智を求める人>であればあるほど、<国語>で<テキスト>を書かなくなっていくのを究極的には意味する。>(同上・p252・253)

 そして、水村さんは、もし夏目漱石が今生まれたとしたら、彼は国語で文学を書かないだろうという。もし、そうなら、もう結論は出ていることになる。それなのに、彼女は、「日本語が『亡びる』運命を避けるために何をすべきか」と問う。そして、英語教育と日本語教育の在り方を提言している。おそらく、漱石なら放っておいたほうがいいと言うに違いない。個人的な意見を言うなら、日本語は亡びてほしくはない。しかし、言語というのは、人間が話したり書いたりするものであるだけでなく、人間が考える時にも使われるものである以上、人間が変われば変わりうるものであるとしか言い様がない。

 ただ、私は、思考というものは、母語でするものだと思っている。だから、母語を学問をするに耐えうる言葉に鍛えることこそが大事だと思う。今年、ノーベル化学賞を受賞した日本の科学者たちは、英語で論文を書いたかもしれないが、日本語で思考したと思われるのだ。また、確かに国語というが、まさしく国語を作ってきたのは、国の政策ではなく、日本の近代文学だったということを水村さんは述べていた。とするなら、私たちは、日本語をもっと鍛えていくしかないのであり、そういう意味で、英語を読む能力を鍛えると同時に日本語を大事にしていこうと言うことはとても理解できる。そして、さらに言うなら、母語を思考に耐えうる言葉に鍛えるためには、書き言葉を鍛えなければならないということになる。思考というのは、おそらく、表現することを通してしか鍛えられないと思われる。

 私が水村さんに違和を感じるのは、ここのところだ。それは、ある意味では、七章全体の問題だと思われる。なぜなら、それまでに書いてあることから考えると、七章で展開されていることなど、ほとんど無意味に思われるからだ。そこまで読んできた私たちとしては、後は、時代の必然に任せるほかないという結論にならざるを得ないのだ。にもかかわらず、何故、七章を必要としたかと言うことかもしれない。しかし、七章のようなことを論ずるならば、その前にやらなければならないことがあるような気がする。それは、一つは、英語とは何であり、<普遍語>となった英語は今までの英語と同じなのかどうかということである。もう一つは、英語が<普遍語>になったとき、各国の国語はどのように変わっていくのかということだ。さらに、もっとも非西洋語になる日本語の特質とは何であり、それは<普遍語>に対してどんな役割を果たすようになるかということでもある。

 言語というのは、ある一定程度の人々が使っている限り、簡単には亡びないことは、ユダヤ人たちが証明してみせた。その上、過去の<普遍語>がいずれ<普遍語>の位置を別の言語に譲ったように、英語も未来永劫<普遍語>という位置にいるという保証など少しもない。私は、七章以降でこうしたことを展開してほしかった。それがない限り、日本語は、ただ物珍しい言葉であるが故に、保存されるべき言語ということになるだけだ。私たちにとって、日本語とは、本当は何であるのかということを、やはりもう一度根本的に考えてみるべきだと思われる。<書き言葉>は、<話し言葉>をただ写し取っただけのものではないという指摘や、学問的な真理と文学的な真理は違うという指摘などは鋭いものであり、私たちは、言語の本質をもう一度考えながら、もっと遠くまで考えてみるべきだと思う。

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『ひとり日和』

2007-02-18 22:33:47 | 文芸・TV・映画

 青山七恵さんの『ひとり日和』は、第136回の芥川賞を受賞した。石原慎太郎と村上龍がわざわざ記者会見をしたという話が新聞に載っていた。とにかく、二人は、べた褒めしていた。青山七恵さんは、1983年に埼玉県に生まれ、現在旅行会社に勤めているという。大学を卒業して、働きだしところである。『ひとり日和』(文藝春秋・平成19年3月号所収)は、青山さんと違って、高校を卒業して、フリーターをしていた主人公が、やがて池袋の会社の事務アルバイトから、正社員になるところまでの1年と少しの間を描いた作品である。

 高校の教員である母親(47才)が、中国に行くことになり、ついて行けない主人公(三田知寿)は、若い女性を下宿させてくれる荻野吟子という遠縁の70過ぎの女性と暮らし始める。この老女の家が実に巧みに設定されている。石原慎太郎の選評もそこのところを特別に取り上げ、ある意味では激賞している。

 都心の駅のホーム間近の、しかし開発から取り残されてしまった袋小路の奥の一軒家という寄宿先の設定も巧みだし、特に、その家から間近に眺め仰ぐ、多くの人間たちが行き来する外界の表象たる駅への視線は極めて印象的で、今は選者の一人となった村上龍氏の鮮烈なデビュー作『限りなく透明に近いブルー』の中の、ランチキ騒ぎ放埒の後眠りこけて遅く目覚めた主人公が、開け放たれたままの扉の向こうにふと眺める外界の描写の、正確なエスキースに似た、優れて絵画的な描写に通うものがあった。(石原慎太郎「大都会でのソリテュード」芥川賞選評より)

 これに対して、当の村上龍は、この作品の核になるべき場所として、この駅のホームを次のようにとらえている。

 この駅のホームは、作者が自らの視線と観察力を基に「構築」したものであり、作品全体のモニュメントのような象徴にもなり得ている。その場所に仲介されるように主人公は世界を眺め、外部から眺められる自身をイメージする。
 作者はそのような場所とその意味を、「意識的に」設定したわけではないだろう。おそらく、ふいに浮かんできたものを直観的にすくい上げたのだと思う。自覚や意識や理性など、たかが知れている。作家は、視線を研ぎ澄ますことによって、意識や理性よりさらに深い領域から浮かんでくるものと接触し、すくい上げるのだ。(村上龍「芥川賞選評」より)

 石原慎太郎と村上龍は、青山七恵さんの文学的な感性を直観的なものとしてとらえ、自分たちがかつて持っていたものと同じようなものと感じているようだ。これに対して、女性の高樹のぶ子は、この作品を「若い女性のもったりとした孤独感が描かれていて、切ない」ととらえているが、この作者のかなりの高度な作意をかぎ取っている。

観念から出てきた作品ではなく、作者は日常の中に良質な受感装置を広げ、採るべきものを採って自然体で物語をつむいだ、かに見えるのは、実はかなりの実力を証明している。四季を追って女性の変化を描く手法にしろ、七十代の男女と意識を絡ませたりすれ違わせたり、また盗癖や蒐集癖があざとくならず説明的にもならず、彼女の寂しさを十分に伝えているところなど、要点が押さえられているのに作意は隠されている。(高樹のぶ子「”作意を隠す力”」芥川賞選評より)

 私には、高樹のぶ子の選評がいちばん当たっているような気がする。

主人公の女性は二十歳、その母親は四十代だろう。この母親は中国に行き再婚するとかしないとか。さらに主人公がともに暮すことになる吟子さんは七十歳を過ぎているらしいが恋をしていて、男性と付き合っている。この作品はいまや三世代が恋愛の現役だということを、さらりと伝えている。主人公が失恋して呟く。「なんか、お年寄りってずるいね。若者には何もいいことがないのに」──若い女性の実感がぴしりと決まり、まさに今を言い表している。(同上)

 『ひとり日和』という作品の評価としては、この高樹のぶ子の選評がいちばん適切なような気がするが、それにしても青山七恵さんの才能は優れたものだと思う。私には、主人公の恋も母親の恋も、そしてさらには吟子さんの恋にも、切迫感が感じられない。あたかも人間は、恋をしなければ生きてはいけないものだという道理があるかのように見える。若い二人には、セックスが必要であり、母親の世代は生きていく支えが必要であり、そして老人たちが求めているのは、優しさだと言っているように思える。これは、まあ、主人公の恋愛観かも知れない。

 私が読んでいて、とても面白いと思ったのは、主人公のコンパニオンのアルバイトから初め、その次に少し長期の駅の売店の売り子、そして事務のアルバイトを得て、最後はそこの正社員になるという過程である。これは、何となくふわふわとしていた主人公の気持ちを現実的にし、やがては普通のOLになっていく過程だととらえられる。いままでの文学はその逆の過程がたいていは対象になっていた。そう、そうして主人公たちは、なんだか暗い自分の心の闇を見つめたり、あるいはまたそれを現実の中に見つけたりすることにもなる。しかし、この作品ではそれとは全く逆の過程が描かれている。そうすることによって、三世代のそれぞれの恋が、みな同じようにはかなく、そして切ないものに見えてくるから不思議だ。

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