電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『功名が辻』が終わる

2006-12-10 22:41:09 | 文芸・TV・映画

 戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、ついに土佐20万石の大名になってその生涯を遂げた山内一豊とその妻千代の生涯の物語が、今日で終わった。大体において、NHKの大河ドラマは、一人の歴史上の人物の一生を1年間で描くという仕掛けになっているので、毎年この時期になるとそうした物語の最終回となり、主人公の最後の場面になる。自分の年が、もうすぐ山内一豊の死んだ60歳に近くなるということが頭にあるせいか、今回の最後の場面になると何となく考えさせられてしまった。彼は、最後は大名にはなったのだが、それは幸せな人生だったのだろうか。彼は、多くの戦場での危機を乗り越えて大名になった。しかし、最後は病には負けて、60歳で死んだ。

 大河ドラマのナレーションでは、彼らが死んだ後、彼らの思いとは別に、戦がなくなったわけではなく、今も続いていると言うことを訴えていた。しかし、一豊と千代は、徳川の時代になって、平和の時代、戦いのなくなった時代が来たこと信じて、死んでいったに違いない。徳川の代の終わりに、日本の新しい時代のために活躍した、山内容堂と坂本龍馬のことを思うと、不思議な気がする。土佐の国藩は、徳川時代の初めと終わりにそれなりの役割を果たすべく運命づけられていたのかも知れない。しかし、人の一生を時代の中で位置づけると、時代の転機を担った人と、全くそうでない人に分かれてしまう。

 NHKの『プロジェクトX』は、ほとんど時代の象徴になれそうにない人たちを、時代を象徴する仕事を通じて描いてみた物語だった。彼らは、決して山内一豊のようには取り上げられない人たちだ。そした、本来なら、その他大勢で片づけられるべき人たちだった。しかし、一つの時代を象徴する仕事が、あるいは彼らが作り出した商品が、時代を象徴することによって、彼らは時代の表面に現れてきた。これは、おそらく、現代の産物だと思う。現代は、まさしく、そうした個人を個性ある人物として描かざるをえなくなった時代なのだ。これが、山内一豊の時代と、私たちの時代との決定的な違いだと思う。

 昨日、NHKの総合テレビの7時30分から10時30分までの一般参加者も含めてインターネットの将来を考える討論番組『日本の、これから』を観た。結論は何となくわかっていた。そして、まさしくそういう結論に落ち着いた番組だったと思う。一般参加者も含めて、みなかなりインターネットを活用している人たちが話していたように思う。現在のインターネットの光と陰の部分をどうするかということは大変難しいことだと思う。最終的には、国で規制するかどうかと言うところに行く可能性があり、現にここでの話も、NHKのストーリーとしては、そうなっているようだった。実際に、世界という観点から見れば、既に必要ならば国は規制しているし、監視もしている。

 この点からだけ述べれば、大切なことは、インターネットを安全で、信頼できるものとして使いたい人たちをどう保護するかと言うことだと思う。規制ではなく、どうサポートするかだと思う。プロバイダーは、そうする社会的責任があると思う。つまり、私たちは、ある意味では、自分の選んだプロバイダーに自分のプライバシーを預けているのであって、それはプロバイダーが自分でするべきだと思う。そして、そのプロバイダーが、会員の中で犯罪を起こしているものがいるのであれば、適切に排除できるような仕組みを持つべきだと思う。それを警察や国家がやるのではなく、プロバイダーがやるべきだと思う。

 「インターネットには、光と陰がある」というのは、昔から言われてきたことだし、これからも言われることだと思う。しかし、それは単に、社会では、良いことも起きれば、悪いことも起きるものだと言っているに過ぎない。便利だと言うことだけで、安易に使ってはならないということ以上のことを言っているわけではない。私たちは、既にインターネットの便利さと個別性に囚われてしまっている。私たちがインターネットの時代になって、どのような時代に直面しているか考えるべきだと思う。もし、「日本の、これから」ということを考えるのならば、私たちは、おそらく、『プロジェクトX』の時代をも超えて、インターネットを通じて、個が露出し始めた時代ということが重要なことだと思う。

 「個人情報の保護」ということが重要な課題になったと言うことは、ある意味では、インターネットの特色を映す鏡のようなものだ。インターネットは、その構造上、限りなく「個人情報」を露出していく性格を持っている。何かをネットに載せるということは、不特定多数にその情報をさらすということを意味しているのであって、文字通り、世界中にその情報をさらすことを意味している。山内一豊は作家によって、個性を晒され、『プロジェクトX』の登場人物たちは、NHKによってその個性を晒された。しかし、インターネットの時代は、匿名掲示板などを等して、個性を晒されているだけではなく、自分でブログを書いたり、HPを開くことによって、自ら個性を晒しているのである。

 だから、私たちは、インターネットの時代になって、初めて自分自らの行為が自分の個性を晒すことになるという自体に直面したのだと自覚すべきだと思う。そして、そのことは否応もなく、他人を巻き込んでいくことである。あるいは、他人に巻き込まれていくがゆえに、情報の露出に巻き込まれていくことでもある。『功名が辻』という言葉は巧みな言葉だ。インターネットの世界で、発信するということは、好むと好まざるに関わらず、『功名が辻』に自分の身をさらすことでもあるのだ。そのことが、戦国の世と、現代の違いとなってあらわれてきているのかも知れないと、思った。

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『ダ・ヴィンチ・コード』

2006-05-28 20:00:15 | 文芸・TV・映画

 遅ればせながら、角川書店の文庫本で『ダ・ヴィンチ・コード』(上・中・下)を一気に読んだ。残念ながら、映画はまだ見ていない。カンヌ映画祭では、不評だったそうだ。カトリック信者からは、抗議行動が起こり、あちこちで話題になった。映画としての興行成績は、『スターウォーズシスの復讐』に次ぐ売上だということなので、大成功だったのだろう。映画については、よく分からないが、本はとても面白かった。事件は、ほんの一瞬の出来事である。そのわずかの時間の間に、いろいろなエピソードが散りばめられ、事件の解決と、レオナルド・ダ・ヴィンチが残した謎の作者の解釈が明らかになる。

 この本については、既にthessalonikeさんの「世に倦む日々」というブログに長い論評がある。とても参考になるが、本を読む前に読まない方がいいのかもしれない。本を読んでからこのブログを読むと、なるほどと思う部分と、何となく不満な部分があることに気づく。私は、thessalonikeさんとは違って、サスペンス小説として素直に読むことができた。ところで、この素直に読めたのは、映画が上映される前日に、テレビでダビンチ・コードに迫る特別番組があり、それを見ていたからかも知れない。本に出てくる、場所、遺跡、寺院など、想像力だけではちょっとついて行けない世界が映像として示されていて、私は本をスムーズに読むことができた。この特番は、映画を見るときの参考になるかどうかは不明だが、本を読むときにはとても参考になった。

 つまり、私は、レオナルド・ダ・ヴィンチが残したと思われる謎のほうは、既に知っていてこの本を読んだことになり、殺人事件のミステリーのほうに惹かれながら読んだので、スムーズに読めたのかも知れない。この本では、二つの大きな謎を巡って物語が展開されているが、それは本当は別々の謎である。もちろん、ひとつの謎が殺人事件まで起こすのでそれは必要な謎ではあるが、本を読むときにあまりに大きな謎を二つも提示されると、まごついてしまうことになる。おそらく、そのことが表現の奥行きにではなく、謎の奥行きになってしまったのだと思われる。

 私は、キリストに対して、「神の子イエス」というより「人間イエス」という観点から接してきた。そういう意味では、イエスもまた、イスラム教のマホメットのように、一人の予言者だったと考えていたことになる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、元々同じところから生まれてきた別々の宗教である。そして、それは、宗教というものは、その担い手によって、これほど変化するものだと言うことを教えてくれる。「ユダヤ人にとっての法」については、塩野七生さんが『ローマ人の物語──悪名高き皇帝たち(2)』(新潮文庫18巻)の「ローマ人とユダヤ人」という章で面白いことを言っている。

 ユダヤ人にとっての「法」とは、モーゼの十戒のように、神が与えたものを人間が守るのが法なのである。実際はモーゼが岩陰かどこかで石片に彫りつけたものを人々の前に示し、神の意志ゆえに守らねばならぬと言わないと納得してもらえなかったかだだろうが、神が与えたものとなった以上、人間ごときが変えてはならないのである。
 一方、ローマ人の考える「法」とは、人間が考え、それを法律にするかどうかも、元老院や市民集会という場で人間が決めるものなのだ。ゆえに、現実に適合しなくなれば、改めるのに不都合は全くない。(塩野七生著『ローマ人の物語』18巻新潮文庫p162より)

 これはユダヤ人とローマ人のちがいというより、ユダヤ人の場合は宗教なのであって、ユダヤ人の「法」は、ユダヤ教だけではなく、イスラム教やキリスト教でも同じはずである。キリスト教徒になる前のローマ人は、多神教の世界に住んでいるのであって、我々日本人とよく似た思考をしている。普通、「信仰の自由」ということが保障されている国では、宗教の戒律とは別に、「法」が定められていて、その方はそこに住む人間が共同で守るべきものとして立法される。宗教の世界では、それが逆転して、「法」は神が与えて、人間が守るべきものになる。いわば、民主国家とは、いわば国家そのものが、多神教の宗教を信じている世界なのかも知れない。

 それは、とにかくとして、私たちは、聖書の研究がいまどんな状況にあるのかをこの本を読むことで理解できる。『ユダによる福音書』が発見されたという話もある。こうした新しく発見された文書を解読し、原始キリスト教の姿がだんだん明瞭になり、人間イエスの真の意味での革命性がはっきりしてくることは、宗教というものの存在意義を高めこそすれ、決しておとしめるものではないと思う。私たちは、ユダヤ教やイスラム教などの世界と同じように、キリスト教の世界でも、女性と性はいつも蔑まれてきたことを知っている。本当はそうではなく、イエス・キリストこそ、女性と性を本当に理解していたという説は、あながち嘘ではなさそうだということは理解できた。

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「パキータ」

2006-04-30 23:09:18 | 文芸・TV・映画

 パリ・オペラ座バレエ団の日本公演が3年ぶりに東京文化会館で行われた。今回の日本公演は、4月21日から24日までが「白鳥の湖」で、4月27日から30日までが「パキータ」である。私は、知り合いが譲ってくれたチケットで、29日に見に行った。バレエを見るなんて何年ぶりだろう。テレビやDVDで時々見たりしているが、実際の公演を見に行ったのは10年以上も前の話だ。しかも、今回は、パリ・オペラ座バレエ団の公演で、今度はいつ見られるかわからない。そういう意味では、幸せであった。

 こうしたバレエとか、オペラとかは、たいてい妻と一緒に行くのが多いのだが、今回は突然の話で、チケットは1枚しかなかった。一人で、バレエを見に行くというのは、妻と二人で行くのと違って、何となく華やかな気持ちにさせる。6時半開演だが、6時に東京文化会館についたら、もう多くの人びとでごった返していた。私は中に入り、会場の前のホールで赤ワインを注いで貰い、一人でホールの中二階の二人がけのテーブルに座って、会場に向かう人の流れを眺めながら、グラスを傾けた。ワインは、600円ほどだが、ここで座ってワインを飲むのが私はとても好きだ。

 ワインを飲みながら、前日、友人3人と酒を飲んで語り合ったことを思い出していた。友人の二人は、早くから結婚し、もう子どもたちも大きくなっていて、ほとんど家で会うことはないのだが、その代わり、休みの日などに、女房と二人で食事をすることになるのだが、そんな時最近時々とても気まずい場合があるというのだ。彼らは、そこでふと会話が途切れてしまって、困ってしまうということらしい。私は、結婚が遅く、子供が産まれたのも遅くまだ小さいので、今のところ妻と二人で気まずい雰囲気を味わっているような暇はない。しかし、私の場合も、時々、子どもが塾や習い事に行っていて、妻と二人になるときがある。その場合は、まだ子どもの話などが中心だが、ふとお互いに孤独を味わっているような時間が流れることがある。それは、気まずいと言うより、そこに一人の人間がいるのだなという感じでもある。

 子どもは自分の遺伝子を一部持っているが、妻は全くの他人である。おそらく、未だに、妻は私の知らない人生を生きてきた過去を持っているし、それはそれで、私の場合も同じだと思う。この劇場の中を行き交う多くの人たちを私は全く知らない。もちろん知っている人も居るのかも知れないが。彼らは、いろいろな目的でバレエを見に来たはずだ。それは人数分の理由や目的がある。しかし、見終わった後、バレエについて何かを感ずるはずだ。かれらは何を味わって帰るのだろうか。妻は、「美」をとても大事にする。私が、そこに「意味」や「知」を求めているとき、たいてい妻は、「とても綺麗だったね」という感想を述べる。彼女の中で、「美」は完結しているらしい。確かに、彼女が感じている美しさは、永遠に私にはわからないのかも知れない。

 6時20分ごろになったので、私は、会場に入り、1階2列34番の席に座った。東京文化会館に行った人ならわかるが、そこはオーケストラボックスのすぐ前で、ほとんど右端に近く、下から舞台を見あげるような位置になる。音楽もそして踊りも、すぐ近くで、とても迫力がある。ただ、前の座席に座っている人が邪魔で、舞台の全体が見えないのが残念だった。しかし、私の周りに座っている人たちは(女性のほうが圧倒的に多いのだが)、そんなことはなれているようで、ブラボーと叫んだり、熱烈な拍手を送ったりしていた。私は、美しい踊りだと思ったが、あまりに近くで見たせいか、つま先立ちするバレエの踊りに痛々しさを感じてしまった。

 「パキータ」というのは、19世紀のナポレオン占領下のスペインにいた美しいジプシーの娘の名前である。彼女は、スペインにやってきたフランス人貴族のリュシアンと恋に落ちるが、自分がジプシーであり、不釣り合いの身分であることに悩み、身を引こうとする(第1幕1場)。しかし、スペイン人やジプシーたちがリュシアンを殺そうと計画していることを知り、機転を利かして、彼を助ける(第1幕2場)。そして、その陰謀が暴かれた舞踏会で、実は自分がフランスのある貴族の娘であることがわかり、めでたくパキータとリュシアンは結ばれる(第2幕)という話だ。大体のあらすじを知ってから、私はこのバレエを見たので、登場人物たちの踊りの意味がとてもよく分かった。音楽と踊りが見事に調和していた。

 バレエは、途中20分の休憩を挟んで、8時50分頃終了した。私は、真っ直ぐに池袋に向かい、9時半の特急に乗り、家に帰った。電車の中で、久坂部羊さんの『無痛』(幻冬舎/2006.4.25)を読みながら、ふと、今日のバレエのことを思い出していた。彼らは、足が痛くなったときどうしているのだろうか。ツメが割れて血が滲んだときどんな思いをしながら踊っているのだろうか。そういえば、バレエは、ルネッサンスの頃にもうイタリアで始まった踊りであるが、ある程度完成したのは、フランスのルイ14世の頃だ。このパリ・オペラ座バレエ団もそのルイ14世が始めたものだ。そう、バレエというの、貴族たちが見るためのものだ。そして、貴族たちというのは、とても残酷なものだ。イタリアから、フランスへ、フランスからロシアへ、そしてまたフランスに戻り、現代のモダンバレーへと続くバレエの歴史は、また、それで興味深そうで、機会があったら勉強してみたいと思った。

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『ナルニア国物語』

2006-04-02 20:00:15 | 文芸・TV・映画

 かみさんと子どもと一緒に、近くの入間市にある映画館で『ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女』を観た。『ハリーポッター』や『指輪物語』と比べて、とても穏やかな映画だと思った。もちろん、そう感じたのは私の印象であって、他の人はまた別の印象を持つのかも知れない。丁度、ロンドンがナチス・ドイツの空襲にあい、日本で言うところの疎開に送り出された4人の兄弟姉妹の冒険ファンタジーである。空襲の場面から映画は始まるのだが、何となくハリーポーターが、魔法学校へ出かけていく場面を彷彿とさせる。

 もちろん、話の展開の仕方は、『ハリーポッター』より、『指輪物語』に近い。『指輪物語』の作者J.R.R.トールキンと、『ナルニア国物語』の作者C.S.ルイスは、同年代の文学者であり、友人でもあった。二つの作品には、ヨーロッパの第1次世界大戦や第2次世界大戦の影がはっきりと刻印されている。邪悪な世界を支配する魔女やサタンには、ナチス・ドイツのナチズムが作者によって意識されていたに違いない。『ハリーポッター』と違い、『ナルニア国物語』も『指輪物語』も世界の崩壊と世界の再生がテーマになっている。『ナルニア国物語』のほうは、敬虔なキリスト教信者ルイスの作品らしく、物語の展開にアスランと呼ばれる王者のライオンの復活をはじめとして、キリスト教的な要素がたっぷり盛り込まれている。

 私が『ナルニア国物語』を穏やかな映画といったのは、幾つかの意味があるが、今述べたキリスト教的な要素によるわかりやすさということも理由の一つだと思うが、登場人物たちがグロテスクでないこともある。登場人物たちは、動物は動物のままであり、妖精は妖精のままであるといった方がいいかもしれない。アスランもライオンのままであり、魔女はとても魔女らしい。こうした、魔法の世界が映画になるのは、CGという技術の発展によるところが大きい。『ハリーポッター』の魔法の世界と同じように、奇想天外なナルニア国の住民たちが登場するが、これを映画化するためには、どうしてもCGが必要だったということができる。

 ロンドンから疎開先に出かけ、そこにあった洋服ダンスの中から、子どもたちはナルニア国に出かけていくという発想は、この世界とあちらの世界はどこかで通じているのだよということを象徴している。それは、全く別の世界であり、魔法の世界であるけれども、こちらの世界と全く別なのではないというルイスの考えがあるように思う。だから、ナルニア国で貫かれている倫理は、この世界でも貫かれなければならないという、ルイスの願いでもある。その世界は、とても分かり易く、私をほっとさせた。特に、4人の主人公、ルーシー、エドマンド、ピーター、スーザンの兄弟姉妹は、よくある普通の子どもたちであり、とりわけルーシーの無邪気な姿は、見ていて微笑ましくなる。

 ビアトリス・ゴームリーのC・S・ルイスの伝記『「ナルニア国」への扉』(文溪堂/2006.4)によれば、トールキンは、この『ナルニア国物語』を批判したようだ。

 なぜトールキンがこれほどまでにナルニア国物語を認めなかったのかといえば、ジャック(ルイスのこと)はトールキンのように、苦労してゼロから完璧に想像の世界を創りあげていなかったからだ。ジャックはかわりに、自分の想像の世界で生き生きと暮らす、違う国の神話や、タイプのちがう想像上の生き物を、楽しみながら物語にまぜいれた。ナルニア国では、古代ギリシャ神話にでてくるフォーンと中世時代の騎士が同居し、『たのしい川べ』に登場する動物と同じようにおしゃべりするビーバーがいて、おまけにサンタクロースまででてくる。こうしたごちゃまぜの魔法の世界に、現代のロンドンに住むごくふつうの女の子ルーシーがやってくる。ジャックはこうしたことに何の疑問も持たなかった。ジャックは子どものときから、自分が生きている世界はひとつではなく、”ちょっと角を曲がった先に”まだ知らない別の世界があると感じていたからだ。『ライオンと魔女』の老教授がいうように、ちがう世界にまよいこむのは”全くありうること”なのである。(『「ナルニア国」への扉』p114・115)

 私には、トールキンの指摘もよく分かる。物語の世界が、借り物じみているのは確かだ。しかし、ルイスは、おそらく、自分でもこの別の世界の存在をある意味では信じていたのだ。ルイスにとって、それは、単なる空想世界ではない。自分がこれまでに考え、悩んできたキリスト教への信仰心の象徴でもあるのだ。だから、かれは、古代ギリシャ時代からの神話や中世の神話をそのまま、神への信仰の象徴として信じていたと思われる。アスランは、だから、ルイスにとっては、キリストそのものだったと思われる。ルイスにとっては、キリスト教の世界とナルニア国の世界とは、まさしく同じ世界であった。

 トールキンが『指輪物語』を書いたとき、彼は現実逃避の文学だと批判された。彼の作品は、現実を丁度裏返したような世界になっていて、彼はその世界で平和を実現させた。ルイスの世界もまた同じような世界ではある。しかし、ルイスの場合は、トールキンと違って、『ナルニア国物語』はひとつの象徴であり、神話であり、ふと迷い込むが、最後にはそれは消え失せてしまう世界である。消え失せてしまうが、人々の心の中に、確かな像を残す。おそらく、『ナルニア国物語』を読んだ読者は、アスランの存在を忘れることができなくなる。

 最近、児童文学の世界でファンタジーが売れている。そして、映画にもなっている。書かれたときがそうだったように、おそらく、そうしたファンタジーの世界に対応した現実がどこかにあるに違いない。サタンや魔女が現実世界の誰を象徴しているのかはわからないが、世界が変動期を迎え、どこへ向かおうかわからなくなってきているという不安がそうさせるのかも知れない。そして、それらを読んだり見たりしているのは、子どもだけでなく大人も同じだと思われる。とりわけ子どもたちの場合は、ひょっとしたらもっと深刻なのかも知れない。

 日本の場合、こうした良質のファンタジーは、おそらくコミックの世界で実現されているものと思われる。岸本斉史の『NARUTO』などは、ある意味では日本版『ハリーポッター』だと言えないことはない。『ナルニア国物語』や『指輪物語』が第2次世界大戦の影を映しているとしたら、『ハリーポッター』や『NARUTO』は、現代世界を象徴しているに違いない。そこの何を読み取るかは別にして、彼らの中に、新しい子ども像が息づいていることだけは確かだ。

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『沖で待つ』

2006-02-19 11:49:25 | 文芸・TV・映画

 第134回芥川賞受賞作は、絲山秋子さんの『沖で待つ』という作品だった。私は、文藝春秋の3月号に掲載されているのを読んだ。これまでも意欲的に作品を発表してきた作家のようだが、私は絲山さんの作品は始めて読んだ。だから、この作品が彼女の作品の中でどのような系列に属するかは全く知らない。ただ、昨年までの芥川賞とは全く異質な作品であることは確かなようだ。彼女は、1966年生まれで、早稲田大学を卒業後、住宅設備機器メーカーに就職し、2001年に退職したというから、この作品は彼女のよく知っていた世界を素材にした作品であるようだ。しかし、今までの芥川賞を受賞した作品で、これだけサラリーマンとしてのふつうでありふれて人物像を描いた作品はないのかも知れない。

 主人公の「私」は、住宅設備機器の総合職に就職し、営業で全国を飛び回るいわばキャリアウーマンといってもいいのかも知れない。「私」と同期入社の牧原太(まきはらふとし)とよくある関係を描いている。よくある関係といっても恋愛関係なんかではなく、同期入社の関係である。入社早々に配属されたのが、九州の福岡である。戦争の時だったら、きっと戦友というのだろうな、というのが私の印象だった。二人とも東京の大学に入り、東京で大手の会社(全国にかなり大きな支社があるらしい)に入り、そのまま地方に配属されることになったわけだが、二人の出会いは、偶然であるが、二人はなんだか精神的につかず離れずの関係になる。

 牧原太は、福岡で社内恋愛をして、結婚する。数年後、彼は人事異動で東京に来る。そして先に埼玉に異動させられていた「私」とまた、再開することになる。そして、二人は、戦友のように、お互いの秘密がPCのHDDに隠されており、そのお互いのパソコンのHDDの中身をもし何かがあったら残った方にこっそり消して貰うことを約束し合う。当然、相手がそこに何を保存していたかは見ないことにして。二人は、そこに何があるか、あまり興味のない関係でもあるわけだ。気軽に約束したものの、そんな約束などきっと果たすようなことはないとたかをくくっていた「私」だが、約束を果たさなければならなくなってしまう。

 牧原太は、東京のマンションで出勤しようと出たところで、7階から投身自殺があり、直撃を受け即死してしまったのだ。何のミステリー性もないし、太が死ななければならない必然性もない。その死には、どう考えても何の「意味」もない。これほど無意味な死はない。そして、「私」は、会社で始めて泣き、泣き終わってから、かねてからの約束を実行することになる。「私」は、約束通り、死んだ牧原太のパソコンのHDDの中身を読めないようにした。そこに何が置かれていたかは、不明のまま。後日、牧原の奥さん(珠恵)に会いに行って、牧原が書いていた詩を見せられることになる。

珠恵よ
おまえは大きなヒナゲシだ
いつも明るく輝いている
抱きしめてやりたいよ

夕暮れおまえのことを思いだす
夕陽は九州に向かって沈んでいく
珠恵 珠恵 珠恵
夜になってもさびしがるなよ
俺の心はおまえのものだから(文藝春秋3月号p395)

 「私」はあまりに下手くそな詩にあきれつつも、「私」が消したHDDの中身はおそらく、こうした詩が一杯書かれていたことに思い当たる。ノートに書かれていた詩の一節に次のようなものがあった。

俺は沖で待つ
小さな船でおまえがやって来るのを
俺は大船だ
何も怖くないぞ(同上・p396)

 この詩の「沖で待つ」というのがこの作品のタイトルになるわけだが、下手な詩だけれども妙に心に主人公の「私」の心に残る言葉だった。

 太っちゃんはわはは、と笑って、
「ばかな一生だったなあ」といいました。
「同期って、不思議だよね」
「え」
「いつ会っても楽しいじゃん」
「俺も楽しいよ」
……中略
「楽しいのに不思議と恋愛には発展しねえんだよな」
「するわけないよ。お互いのみっともないとこみんなしってるんだから」(同上・p400)

 私とは、ちょっと理解の仕方が違うような気がするが、「同期」という関係が特殊な関係であることは分かるような気がする。それは、ある種の時代の共有感だと思う。ある種の時間と空間を一緒に過ごしたという偶有性とでも言えばいいのかも知れない。この小説の初めと終わりに書き留められている、死んでしまった太と「私」とのメルヘン的な会話は、何の必然性もなく死んでしまわなければならなかった太の「死」に対する作者の「鎮魂歌」なのかも知れない。なんだか、それだけが妙にリアリティーがあり、それ以外のところは、なんだが、すぐに忘れてしまいそうな印象なのだ。

 3年ほど前、私の大学の後輩が、9階建てのマンションの屋上から飛び降り自殺をした。幸い、だれも巻き添えを食ったものはいないが、場合によっては誰かを殺していたのかも知れない。死というのは、おそらく、自分の問題ではないのだ。彼のほうは、牧原太よりもう少し文学青年で、それなりの作品を書いていて、西行法師の命日に、西行法師に憧れてか、覚悟の自殺をした。もちろん、彼の言動や友だちからの印象では、生きることへの悩みなど読み取れなかったらしい。もちろん、彼の残された作品からいろいろ邪推することは可能だ。人は、誰かの「死」に出会うと、必ずその「死」の意味を考え、物語を紡ごうとする。しかし、「死者」は、何も語らないし、何も意味しないものらしい。

 私の野次馬根性からすれば、牧原太の上に投身自殺をした人間がどんな人間で、なぜ自殺などしたのか、そして彼は死んでしまったのかどうか、知りたくなる。しかし、『沖で待つ』の「私」は、それらについては、興味がないらしい。戦友は、年を取り、一人一人と死んでいく。そして、いずれ残された自分も最後は死ぬ。私の大学時代の同級生も、何人か死んだ。いつの頃か、そういうものだと諦めつつある自分に愕然とすることがある。会社の中でも、私より若い者が何人が死んだ。一時、噂と邪推で職場で話題となるがやがてそれらは風化し、忘れられていく。

 毎日、新聞をにぎわしている殺人事件には、動機があり、その社会性が新聞等で話題になり、ある種の物語を紡ぎ出すと、やがて忘れられていく。そうした物語は、たとえ忘れられていくとしても、おそらくそれなりの時代の象徴になった物語だと言うこともできる。絲山秋子さんは、決して時代の象徴になどなることのない、惨めな殺人事件(自殺した人に殺されたことになる)に巻き込まれ、ほとんど無意味に死んでしまったサラリーマンとのさめた心の交流を敢えて描くことによって、現代の賑やかな事件を相対化したかったのかも知れない。

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