電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

靖国神社の茶会で

2009-10-25 22:42:08 | 文芸・TV・映画

 靖国神社は、8月15日になるととても賑やかになる。もちろん、8月15日は終戦記念日であり、西南戦争から始まり太平洋戦争までの戦死者たちに対して慰霊に参拝したり、また、それに反対したりして、沢山の人たちが集まってくる。ただし、靖国神社の祭典が8月15日にあるわけではない。私たちは、JR市ヶ谷駅か歩いてきて、南門からは入り、参集殿の先で左に曲がり、神池庭園のほうに向かった。その神池庭園の中に、あるいは神池庭園を囲んで、まるで隠れているかのように、行雲亭、靖泉亭、洗心亭という茶室がある。靖国神社の参道からは想像もできないほど、ひっそりとそれらの建物があるのだが、今日は、茶会で、和服姿の沢山の女性が集まっていた。

 表千家都流の創流80周年記念茶会があり、私はかみさんについて参加。席亭は、靖泉亭広間・靖泉亭小間・洗心亭広間・洗心亭立礼・行雲亭の5席あり、10時半から15時までだった。沢山の参加者があり、結局、洗心亭立礼と行雲亭の2席しか参加できなかった。昼食には、行雲亭にもうけられた本部席で淡路屋の「ひっぱりだこ飯」と缶入りスッポンスープが出、お土産にばいこう堂の「山もみじ」というお干菓子があった。

 行雲亭では、かみさんの先生と、義理の姉がお点前をしていた。私は、かみさんとかみさんの同級生の3人で濃茶を楽しんだ。名前は忘れてしまったが、洗心亭立礼で出されたお菓子は、とても美味しかった。そして、茶も多少の甘みがあると同時に、ほろ苦く、美味だった。私は、年に2,3回ほどは、茶会に参加するのだが、いつまで経っても茶席のしきたりがよく理解できていない。まあ、飲むだけだから、挨拶の仕方と、お菓子の取り方と食べ方、お茶の飲み方が分かっていれば良いのだが、細かいところは、たいてい前の人のやり方をみて真似をしてごまかしている。

 もちろん、それで十分美味しいお茶が味わえる。お茶を飲み、庭を散策し、景色を見、また、お茶を飲む。ただそれだけのことだが、それがなんとなく奥ゆかしい気持ちにさせてくれる。確かに、これは、伝統文化というものに対する、私たちの心情なのかもしれない。東京という大都市のど真ん中で、こんな行事が行われていることは、当たり前のようで、一つの奇蹟に違いない。考えてみると、こうした奇蹟は、ひょっとしたそこら中で起きていることかもしれない。

 私たちは、茶会の後、九段下の方に向かって歩き、しゃれた茶店でコーヒーを飲んだが、かみさんと同級生がお互いの近況を報告し合いっている間、私は村上春樹の『中国行きのスロウ・ボート』(中公文庫)という短編集を読んでいた。『中国行きのスロウ・ボート』というのは、村上春樹の最初の短編集であり、確かにその後、村上春樹の小説の萌芽がほとんどそろっていると言えるかもしれない。おそらく、村上春樹の生活は、大学を卒業して、結婚し、ジャズ喫茶のようなものをやっていた30歳少し前まで終わっているのだ。そこから先は、作家としての村上春樹になってしまった。

 僕は同時にふたつの場所にいたいのです。これが僕の唯一の希望です。それ以外には何も望みません。
 しかし、僕が僕自身であるという個体性が、そんな僕の希望を邪魔しているのです。これはとても不愉快な事実だと思いませんか? 僕のこの希望はどちらかと言えばささやかなものであると思います。世界の支配者になりたいわけでもないし、天才芸術家になりたいわけでもない。空を飛びたいわけでもない。同時にふたつの場所に存在したいと言うだけなんです。いいですか、三つでも四っつでもなく、ただのふたつです。(「中国行きのスロウ・ボート』所収・「カンガルー通信」より)

 書くということは、おそらく、ふたつの場所に同時にいるということだ。書いているこちら側の世界に身を置きながら、書かれている世界に入っていくことだ。村上春樹が「僕」と書く時、「僕」は、常にふたつの場所に関わって存在している。この『中国行きのスロウ・ボート』に含まれている短編は、全て「僕」の語りとして書かれている。村上春樹は、どこかの段階で、書くことを通じて、こちら側からあちら側に行き、そして戻ってくるという方法を身に付けたのだ。それは、ある意味では、潮来の口寄せのような行為かもしれない。しかし、村上春樹の書くという行為は、本質的にそういうものだと思われる。

 そんなことを考えながら、ふと、その喫茶店から靖国神社のほうを眺めた。そして、靖国神社に合祀された使者たちのことを思った。彼らのうちのほとんどの者たちは、おそらく意味なくして死んだのだ。そして、残されて者たちは、意味なく死んでいくことに耐えられない。いつの間にか、私たちは、そうした死者たちの死の意味を求めているのではないだろうか。ひとは、戦争でだけ死ぬわけではない。そして、戦争で死ぬことも、交通事故で死ぬことも、あるいは、病気で死ぬことも死ぬと言うことでは同じ意味を持っている。どちらが価値ある死に方かというのは、意味がない。この村上春樹の処女短編集にあまり沢山の死の影があることを、私は改めて知った。靖国神社の茶会が、そんなことを私に考えさせた。

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