電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

結婚式と離婚式

2010-09-20 20:59:40 | 生活・文化

 先週末(9月11日)に岐阜県瑞浪市にあるヴィラ・ドゥ・マリアージュ「シェ・モア」で甥の結婚式があり、伯父という立場で出席した。チャペルで挙式というので、教会での式だとばかり思っていたら、突然「人前式」と言われたのでびっくりした。確かにWebで検索すると、「人前式」という言葉で検索できる。神や仏に誓うのではなく、両親やその他の親族、親しい友人などの前で結婚を誓うというのが現代的であるらしい。ある意味では、結婚という儀式を宗教から解放していて、それはそれで興味深いものがあった。新郎は、昭和49年生まれ、新婦は昭和51年生まれということで、それぞれ35歳、34歳である。2人で熟慮した果てに結婚式だったのだと思う。私は、素直に、おめでとうと祝福してきた。

 従って、その日は、披露宴が終わってから、土岐市のホテルで一泊して翌日、埼玉に戻ってきた。岐阜も埼玉も、35度近くの暑い猛暑にまた逆戻りしていた。行きも帰りもかみさんの運転だったのだが、帰りの車中のかみさんの話で、最近は「離婚式」というのがはやっているらしいと聞いて、これまたびっくりした。厚生労働省によると、2008年の離婚件数は25万1136件で、30年前に比べ1.9倍に増加しているという。また、既に米国では「離婚式」が増加し、プランナーや関連企業も登場しているという。カリスマ「離婚式」プランナーの寺井広樹がプロデュースした離婚式ツアーというものさえ登場している。

 どんな結婚式を挙げようが、どんな方法で離婚をしようが本人たちの問題であって、私が特別あれこれ言う権利も義務もないが、「このたびは、離婚おめでとうございます」という言葉には、抵抗を感じる。私の知っている人たちは、離婚したら、もう二度と会いたくないと言うのが普通であり、場合によっては裁判になっているものもいる。つい先日、NHKの7時半からの番組で、離婚して子どもに会えなくなって苦しんでいる父親、母親がいろいろ悩みを訴えていた。夫婦はもともと他人なので、離婚してまた、元の他人に戻るだけであるが、子どもは、自分の父親や母親を取り替えるわけには行かないということなのだ。子どもが大きくなって、なぜ自分が親に会えないのか疑問に思っても不思議ではない。当然ながら、なぜ離婚したのが追究したくなるのだ。

 おそらく、離婚の原因を追及したところで、ほとんど解決しない。恋愛結婚である場合、離婚の原因は、たいていの場合は、2人の責任であって、片方だけというのはほとんどない。そして、いずれにしても、「自分はこの人には合わない」というのではなく「この人は自分には合わない」という思い込みによって離婚に至のだ。自分が相手の為に何ができるかということなど少しも考えることなく、相手は自分の為に何をしてくれたのか、あるいは何をしてくれなかったのか、追究し始めるところから離婚への道は始まるのだ。しかし、考えてみれば、結婚しようとしたとき、私たちは、「この人は自分に合う」、つまり「私の王子様だ」という思い込みによってそう思ったにすぎない。

 私は、結婚も就職も基本的には、同じだと思う。出会いは偶然であり、その偶然の出会いの中で、自分が相手に選ばれたという思い込みによって、私たちは、結婚したり、就職したりする。私たちは、相手が自分に何かをしてくれるからではなく、自分が相手に何ができるか考え、また、会社が自分に何をしてくれるかではなく、自分が会社の中で何ができるかを考えて、更に深くコミットメントしていくのだ。そして、私たちは、より鍛えられていくことになる。そういう思いにならない限り、私たちは、さっさと離婚したり、さっさと会社を変わったりするのだ。そして、それは、どちらかというと不幸になる場合が多い。

 私たちの心の中に、「愛」と呼ばれ得るものがあるとすれば、それは、自分たちのそうした奉仕する精神の中にしかない。私たちは、ただひたすら「奉仕」するのであり、「奉仕される」ことを期待してはならないのだ。「奉仕」することによってのみ、報われるのだ。なぜなら、相手もまた、同じように「奉仕」するからである。何だが、説教くさくなってしまったが、これは、説教ではなく、結婚や就職の論理である。「就活」とか「婚活」とか言う言葉がはやっているらしいが、私は、「奉仕の精神」と「耐えることのできる精神」を鍛えることが、就職や結婚に役立つのだと思う。本当は、出会いなどいくらでもあるのだ。ただ、「奉仕」と「忍耐」に躊躇したとき、人は、婚期を逃すのであり、自分を生かす職場に入ることができないのだ。

 フランス料理のフルコースを味わい、きらびやかな新郎新婦の振る舞いを見ながら、私はそんなことを考えていた。私たち夫婦もかなり高齢結婚だったので、なかなか結婚できない理由が私にはよく分かるような気がする。そして、結婚生活というか、夫婦生活というのは、奉仕することであり、かなりの忍耐力がない限りすぐに崩壊してしまうものなのだということがとてもよく分かる。ほんのちょっとした言葉の綾で、かみさんは一週間以上口を来てくれない時が時々ある。そんなとき、私は、何も言わず、いつもの通り、かみさんにただ尽くすだけであり、さげすむような視線にひたすら耐えるだけである。そして、また、普通の2人に戻るのだ。

 そして、本当はここが最も重要なところだが、結婚も就職も、親から離れていくことである。つまり、親に認められることではないということだ。なぜなら、結婚したり、就職したりすると、どこかで、親と自分の伴侶、親と自分の仕事と二者択一を迫れれる時に遭遇する。そのときに、迷いながらも、最終的には、自分の伴侶と自分の仕事を選択することになるのである。そのとき、私たちは、ある種の「神」の前での誓いが必要なのだ。制度上の結婚式では、両親や友人たちに誓い、そして、認めてもらう為に行われるのであるが、私たちが手に入れたいのは、それではないと思う。そう考えると、私には、「人前式」というのは、結婚の持つ、本当の意味が隠されてしまうような気がする。それが、杞憂でないことを祈る。

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