電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

子どもと学びのゆくえ

2006-04-16 21:44:24 | 子ども・教育

 小学校で英語教育が必修になりそうだ。「小学校における英語教育について」という外国語専門部会における審議の状況報告が出されている。おそらく、これをもとに小学校で英語が、3年生かあるいは5年生から教えられることになりそうだ。4月6日の首都大学の入学式で、東京都知事の石原慎太郎さんが、「小学生は国語力を磨け」と文科省の批判をし、物議を醸していている。これに対して、小坂文科大臣が、「すでに9割の小学校が英語活動に」取り組んでいるといって反批判をしている。石原慎太郎さんの言葉は、酷い言い方だが、ほぼ当たっていると思う。小学校で英語を教えることはかまわないが、必修にする必要などないと思う。

 小坂文科大臣は、かなりの学校で実際に英語を教えている現実と、かなりの親が子どもに英語を早くから教えようと英語塾などに通わせている状況を踏まえて、すべての子どもが英語教育に何らかのかたちで触れられるようにしたいと考えているようだ。つまり、英語の塾などに通わせられない家庭の子どもでも、学校で英語に触れられるようにしたいということだ。それは、それで一理ある。しかし、先の外国語部会の審議では、小学校では、①「英語のスキルを教える」のではなく、②「コミュニケーション能力の活用」のひとつとして英語を教えようという結論になっている。

 外国語専門部会としては、こうしたことを総合的に勘案すると、中学校での英語教育を見通して、何のために英語を学ぶのかという動機付けを重視する、言語やコミュニケーションに対する理解を深めることで国語力の育成にも寄与するとの観点から、②の考え方を基本とすることが適当であると考える。
そして、この場合においても、①の側面について、小学生の柔軟な適応力を生かして、英語の音声や基本的な表現に慣れ親しみ、聞く力を育てることなどは、教育内容として適当と考えられる。(「審議の状況報告」より)

 「英語のスキル」を重視するか、「国際コミュニケーション」を重視するか、議論があったようで、後者を小学校段階の目標に据えている。しかし、それは、同じことだと思われる。いずれ、英語は普通の教科となり、子どもたちは、そのスキルを身につけるようになるに違いない。実際、英語教育を始めれば、それはそうなっていくに違いない。たとえ、学習指導要領で評価の対象にしないといったとしても、中学校で評価の対象になっている以上それが、早まるだけであり、特に最近「小中一貫校」などといわれていることから、一層拍車がかかることになる。

 要するに、「学力向上」から始まった今回の教育課程の改革は、子どもたちにとって更に厳しくなるに違いない。私には、学校から、遊びが消えていくような気がして仕方がない。子どもの生活の中心は、遊ぶことである。義務教育段階の子どもたちにとって、もっとも大事なことは、よく遊ぶことであり、その遊びを通して、ルールや社会性や、友情や思いやりを学ぶことが大切だと思う。彼らは、勉強でさえ遊びとしてすることができる。と、そんなことを考えていたら、「塾に通えぬ小中学生に無料の“公立塾”…文科省、来年度から」という読売新聞の記事が出た。

 経済的理由などで塾に通えない子どもを支援するため、文部科学省は来年度から、退職した教員OBによる学習指導を全国でスタートさせる方針を固めた。
 通塾する子どもとの学力格差を解消するのが狙いで、放課後や土・日曜に国語や算数・数学などの補習授業を行う。来年以降、団塊世代の教員が相次ぎ定年を迎えることから、文科省では「経験豊富なベテラン教師たちに今一度、力を発揮してもらいたい」と話している。

 最近の文科省の論理は、すべての子どもたちにある程度の学力を平等に身につけさせたいということを盛んに強調している。あたかもそのために文科省という存在があるといわんばかりである。このこと自体について、私は特別何も言うことはない。しかし、学校の正規の授業の中でいまどのように学力を身につけさせるべきか模索中なのに、土曜日や日曜日に、学校を利用した塾を作ることなどしていいのだろうか。団塊の世代の退職教師を利用しようとすることは決して悪いことではない。しかし、おそらく、それは塾とは全く別物になるに違いない。そんなことをするより、学校の教師にもう少しゆとりを与え、学力でも遊びでもしっかり子どもたちに対応できるようにするために退職教師を使った方がいいのではないか。

 今必要なことは、子どもたちが子どもたちの時代でしかできない遊びや勉強の仕方を学ぶことである。いたずらに、大人のマネをして、職業教育をしたり、社会勉強をすることではないと思う。そういうことにしっかり対応できる学校にすることが大事ではないかと思う。子どもたちの学力が、普通の塾や、文科省推薦の公立の塾でしか身につかないようでは困る。現に、有名私立中学校などでは塾になど行かなくてもよいに違いない。そして、東京などではそうした有名私立中学校へ受験する子どもたちが、半分以上に達する公立の小学校が出現している。

 藤原智美さんの『「知を育てる」ということ』(プレジデント社/2006.3.27)では、全国の特色ある有名な学校を紹介している。こういう学校を見ていると、「学校とは子どもが『知』を手に入れるための場所である」ということが実感としてわかる。しかし、それは特殊な学校であり、それなりのカネと時間と文化的環境の中で育てられないとそこへは行けないようになっている。その意味では、確実に格差や階層が生じている。政治家の子どもは政治家に、学者の子どもは学者に、教師の子どもは教師に、俳優の子どもは俳優にというような現象を見ていると、日本も本当に階層社会になりつつあるのではないか思われる。

 こうして過剰な期待感を背負わされた学校は、最近では学校機能そのもののアウトソーシングを始めている。総合的な学習にはNPOなどを利用するだけでなく、東京の公立中学校の中には、塾に土曜日の授業をまかせるというところもある。
 家庭が子育てを学校に委託し、学校がそれをさらに外部化するという構図を、ぼくらはどうとらえればいいのだろう。もしかすると、近い将来、学校は躾や食や体力や学力向上のためのコーディネーターのような役割になってしまうのだろうか?(『「知を育てる」ということ』p234・235より)

 いま、小学校で英語が必修化されるようになったり、全国学力テストが実施されるようになったりと、世界に通用する人材育成のための国家戦略として、学力向上への動きが激しくなっているが、その流れの中で、学校そのものが実は既に大きく変わりつつあるような気がする。学校の構造が変わるだけでなく、教師の意識も変わりつつある。つい先日、「職員会議での挙手、採決禁止=都教育庁」という通達が出されたそうだが、唖然としてしまった。職員会議をどのように学校の運営に生かしていくかどうかなど、校長の力量にまかせるべきだし、ときには多数決で決めた方がいい場合もあるに違いない。そんなことは、企業社会では常識だ。会社の社長は、社員がより働いてくれるなら、社員たちの創意工夫や自主的な働きを期待しているはずだし、必要なら多数決で決めさせたりするに決まっている。そして、たとえそうなっても最終的な責任は自分にあることを自覚しているはずだ。それとも、現在校長が職員会議での決議によって身動きできないようになっているのだろうか。そんなことを言っている場合ではないような気がするのだが。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『ナルニア国物語』 | トップ | グーグルとWebの未来 »

コメントを投稿

子ども・教育」カテゴリの最新記事