かみさんと子どもと一緒に、近くの入間市にある映画館で『ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女』を観た。『ハリーポッター』や『指輪物語』と比べて、とても穏やかな映画だと思った。もちろん、そう感じたのは私の印象であって、他の人はまた別の印象を持つのかも知れない。丁度、ロンドンがナチス・ドイツの空襲にあい、日本で言うところの疎開に送り出された4人の兄弟姉妹の冒険ファンタジーである。空襲の場面から映画は始まるのだが、何となくハリーポーターが、魔法学校へ出かけていく場面を彷彿とさせる。
もちろん、話の展開の仕方は、『ハリーポッター』より、『指輪物語』に近い。『指輪物語』の作者J.R.R.トールキンと、『ナルニア国物語』の作者C.S.ルイスは、同年代の文学者であり、友人でもあった。二つの作品には、ヨーロッパの第1次世界大戦や第2次世界大戦の影がはっきりと刻印されている。邪悪な世界を支配する魔女やサタンには、ナチス・ドイツのナチズムが作者によって意識されていたに違いない。『ハリーポッター』と違い、『ナルニア国物語』も『指輪物語』も世界の崩壊と世界の再生がテーマになっている。『ナルニア国物語』のほうは、敬虔なキリスト教信者ルイスの作品らしく、物語の展開にアスランと呼ばれる王者のライオンの復活をはじめとして、キリスト教的な要素がたっぷり盛り込まれている。
私が『ナルニア国物語』を穏やかな映画といったのは、幾つかの意味があるが、今述べたキリスト教的な要素によるわかりやすさということも理由の一つだと思うが、登場人物たちがグロテスクでないこともある。登場人物たちは、動物は動物のままであり、妖精は妖精のままであるといった方がいいかもしれない。アスランもライオンのままであり、魔女はとても魔女らしい。こうした、魔法の世界が映画になるのは、CGという技術の発展によるところが大きい。『ハリーポッター』の魔法の世界と同じように、奇想天外なナルニア国の住民たちが登場するが、これを映画化するためには、どうしてもCGが必要だったということができる。
ロンドンから疎開先に出かけ、そこにあった洋服ダンスの中から、子どもたちはナルニア国に出かけていくという発想は、この世界とあちらの世界はどこかで通じているのだよということを象徴している。それは、全く別の世界であり、魔法の世界であるけれども、こちらの世界と全く別なのではないというルイスの考えがあるように思う。だから、ナルニア国で貫かれている倫理は、この世界でも貫かれなければならないという、ルイスの願いでもある。その世界は、とても分かり易く、私をほっとさせた。特に、4人の主人公、ルーシー、エドマンド、ピーター、スーザンの兄弟姉妹は、よくある普通の子どもたちであり、とりわけルーシーの無邪気な姿は、見ていて微笑ましくなる。
ビアトリス・ゴームリーのC・S・ルイスの伝記『「ナルニア国」への扉』(文溪堂/2006.4)によれば、トールキンは、この『ナルニア国物語』を批判したようだ。
なぜトールキンがこれほどまでにナルニア国物語を認めなかったのかといえば、ジャック(ルイスのこと)はトールキンのように、苦労してゼロから完璧に想像の世界を創りあげていなかったからだ。ジャックはかわりに、自分の想像の世界で生き生きと暮らす、違う国の神話や、タイプのちがう想像上の生き物を、楽しみながら物語にまぜいれた。ナルニア国では、古代ギリシャ神話にでてくるフォーンと中世時代の騎士が同居し、『たのしい川べ』に登場する動物と同じようにおしゃべりするビーバーがいて、おまけにサンタクロースまででてくる。こうしたごちゃまぜの魔法の世界に、現代のロンドンに住むごくふつうの女の子ルーシーがやってくる。ジャックはこうしたことに何の疑問も持たなかった。ジャックは子どものときから、自分が生きている世界はひとつではなく、”ちょっと角を曲がった先に”まだ知らない別の世界があると感じていたからだ。『ライオンと魔女』の老教授がいうように、ちがう世界にまよいこむのは”全くありうること”なのである。(『「ナルニア国」への扉』p114・115)
私には、トールキンの指摘もよく分かる。物語の世界が、借り物じみているのは確かだ。しかし、ルイスは、おそらく、自分でもこの別の世界の存在をある意味では信じていたのだ。ルイスにとって、それは、単なる空想世界ではない。自分がこれまでに考え、悩んできたキリスト教への信仰心の象徴でもあるのだ。だから、かれは、古代ギリシャ時代からの神話や中世の神話をそのまま、神への信仰の象徴として信じていたと思われる。アスランは、だから、ルイスにとっては、キリストそのものだったと思われる。ルイスにとっては、キリスト教の世界とナルニア国の世界とは、まさしく同じ世界であった。
トールキンが『指輪物語』を書いたとき、彼は現実逃避の文学だと批判された。彼の作品は、現実を丁度裏返したような世界になっていて、彼はその世界で平和を実現させた。ルイスの世界もまた同じような世界ではある。しかし、ルイスの場合は、トールキンと違って、『ナルニア国物語』はひとつの象徴であり、神話であり、ふと迷い込むが、最後にはそれは消え失せてしまう世界である。消え失せてしまうが、人々の心の中に、確かな像を残す。おそらく、『ナルニア国物語』を読んだ読者は、アスランの存在を忘れることができなくなる。
最近、児童文学の世界でファンタジーが売れている。そして、映画にもなっている。書かれたときがそうだったように、おそらく、そうしたファンタジーの世界に対応した現実がどこかにあるに違いない。サタンや魔女が現実世界の誰を象徴しているのかはわからないが、世界が変動期を迎え、どこへ向かおうかわからなくなってきているという不安がそうさせるのかも知れない。そして、それらを読んだり見たりしているのは、子どもだけでなく大人も同じだと思われる。とりわけ子どもたちの場合は、ひょっとしたらもっと深刻なのかも知れない。
日本の場合、こうした良質のファンタジーは、おそらくコミックの世界で実現されているものと思われる。岸本斉史の『NARUTO』などは、ある意味では日本版『ハリーポッター』だと言えないことはない。『ナルニア国物語』や『指輪物語』が第2次世界大戦の影を映しているとしたら、『ハリーポッター』や『NARUTO』は、現代世界を象徴しているに違いない。そこの何を読み取るかは別にして、彼らの中に、新しい子ども像が息づいていることだけは確かだ。
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