電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

文部科学省が変わる?

2005-01-20 17:02:36 | 子ども・教育
 18日の朝日新聞によれば、中山文部科学相は、宮崎県の学校を訪問して教職員や児童生徒と直接意見交換する「スクールミーティング」のあとで、記者団に「文科省は、子どもの学力低下を認めたがらなかった。ゆとり教育のせいじゃないかと言われるのが嫌だということだった。私はゆとり教育が低下の原因の一つかも知れないと言っている。また、勉強する動機が弱くなったことを憂えている」と語ったという。初めて、「学力低下」を文科省が認めた言葉として、ニュースになった。文科省は、変わろうとしているのだろうか?
 これに先立って、年末ぎりぎりに文科省の事務次官の人事が内定し、今年のはじめに異動があった。旧科学技術庁の技官出身の結城章夫次官である。これについては、日刊現代が「中央官僚自ら『霞が関改革』着手」という記事を書いている。そこでは法文系官僚が主流の中央省庁に技官出身のトップが登場したことにエールを送っている。

 実際、結城氏本人、さらに旧科技庁の技官たちは今回の人事を絶好の機会として、停滞している教育行政を改革しようと躍起になっている。旧文部官僚に学習意欲を植え付けるのはもちろん、小泉政治がたなざらしにしている霞が関改革を官僚自ら率先して動こうというのだ。新年らしい快挙。温かく見守ろうではないか。

 
 そこにどんな深謀遠慮が働いていたのかはわからないが、一応、中山大臣や小泉総理の了承を得てやられていることだけは確かだと思われる。そういう意味では、「日刊現代」が「もう小泉なんていらない」というのはおかしい。中山・結城ラインとでもいう路線は、それなりの意味があると思う。おそらく、「変革」ということに対する小泉総理のこだわりを私は感じる。それは、とにかくとして、中山大臣は、先ほどの記者会見で、次のようにも言っているという。
 
 文科相は「(理科などの)授業時間がだいぶ減っており、学力が上がるはずがない。特に国語・数学・理科・社会という基本的な教科の時間をいかにして確保していくかだ」として、4教科の授業数を増やす考えを強調した。そのうえで、「総合的な学習の時間や、選択教科をどうするかを含め、国語とか算数とかにもう少し力を注ぐべきではないか」と述べた。

 
「自ら学び、考える力をつける」ことを目的に、教科横断的な学習として2002年度から本格的に導入された「総合的な学習の時間」が、明らかに否定されている。文科省も、これを受けて、学習指導要領の改訂をすると言っている。「総合的な学習」が教科としてうまく機能していないのではないかということは、これまでもしばしば、マスコミに取り上げられてきたことではある。それにしては、あまりに早い、否定論で、現場はおそらく混乱するだろうと思われる。しかし、そんなことは文科省もわかっていることではないだろうか。

 では、何故、文科省は今ここで、矢継ぎ早に教育の改革論を次々と出すのだろうか。普通に考えれば、文科省は、本当に学力の低下が深刻で、対面にこだわっている場合ではないと考えていることになる。そして、それを本気で考えているのは、中央省庁の中で自分たち文科省だけであるということを強調しているということだ。それは、そうでなければ困る。もちろん、今回の発言に対してではないが、中山大臣の一連の「学力低下」を認めた発言に対して次のような記事が書かれている。
 
 規制緩和と地方分権の進展の中で、教育行政における文科省の地位は次第に低くなっている。そればかりか、いわゆる「三位一体改革」によって、文科省の根幹とも言える義務教育国庫負担金制度は、廃止の瀬戸際まで追いつめられている。うがった見方をすれば、文科省の生き残りを図るために、あえて学力低下を認めて、社会の危機感をあおった上で、日本の子供全体の学力向上を行えるのは文科省だけだ、とアピールすることが本当のねらいだった、と受け取れなくもない。(『内外教育』2005.1.18「ラウンジ」より)
 
 私は、どんな意図があろうと、本当に本気になってかかってくれればそれでいいと思う。危機感のない中央省庁では、なくてもいいことになって当然だからだ。問題は、改革の内実だと思う。本当に、「総合的な学習の時間」はやめていいのだろうか。私は、もちろん、「総合的な学習の時間」そのものがなくてもいいと思うが、そこで目指されたことについては、大切なことだと思う。今一度、見直して見る必要があると思う。
 
 いままで、教科書と指導要領に規制されて、授業の中で行われてこなかった教科の発展的な学習や、他教科との連携をこの時間が目指していた。もちろん、そんなにうまくいっていないことだけは事実だ。それは、おそらくあまりに「生きる力」と言うことにこだわり、「学力」と言うことと切り離して、「総合的な学習」ということが強調されていたからだと思われる。私は、いくつのすばらしい実践があるということを聞いている。それは、今後とも授業に生かしてほしい。私たちは、ともすれば、最初の新聞発表の時だけ注目して、後は忘れてしまうが、大事なことはこれからだ。文科省が何をしようとしているのか、しっかりと見届ける必要がある。

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