電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『秋の童話』を見終わって

2004-12-10 23:57:52 | 文芸・TV・映画
 BIGLOBEストリームで無料配信されていた韓国ドラマ『秋の童話』の最終回を見た。次は『夏の香り』だそうだ。これまでに韓国のドラマは『冬のソナタ』と『美しき日々』しか見ていない。だから、韓国のドラマ一般が分かるわけではない。しかし、この三つに共通していることがある。三角関係と出生の秘密と救いのない悲劇的な結末である。話は、かなり単純である。たいてい主人公の女性は貧しい環境で育ち、王子様に気に入られる。しかし、幸せになればなるほど、主人公は罰が当たるのではないかと不安になり、実際、主人公の女性は病に冒されやがて、死んでいく。あるいは、王子様に不幸がやってくる。
 そういうドラマを韓国の人たちは見ているらしい。そこには、韓国の文明が背負った運命が象徴されているような気がしてならない。中国や日本に翻弄され、いま南北に分断された朝鮮半島の暗い歴史がそこに映し出されていると思うのは私だけだろうか。それが切なく、美し描かれば描かれるほど、韓国人たちの内なる悲しみが強烈ににじみ出しているような気がするのは私だけだろうか。まるで、彼らは誰も自分一人だけ幸せになってはいけないのではないかという強迫神経症にかかっているかのようにみえるのだ。

 ところで、私は、『冬のソナタ』のサンヒョク、『美しき日々』のソンジェ、そしてこの『秋の童話』のテソクという、主人公ではないが常に片思いをし最後は振られるというより、自分から身をひいて、主人公たちのはかない幸せを応援する役をする人物たちが好きだ。彼らの精一杯の「恋い」は、私には韓国の未来への希望のような気がする。彼らの恋は、本当に美しく、感動的である。

 この3つのドラマを見て、私は、韓国という国がなんだかとても身近な気がした。つい昨日まで私たちがそんな世界に住んでいたかのような錯覚を覚えた。もちろん、そんなに美しくはないし、そんなにドラマチックではないが、私の大学時代や就職をしたばかりの頃と、よく似ているような気がした。男も女もこんなに泣くのだ。そして、こんなに笑うのだ。そうした、喜怒哀楽の表情が鮮やかで印象的だ。私にもそんな時代があったような気がする。

 もちろん、私は、携帯電話を使って集団でカンニングをする受験生たちや、か弱い二人の姉妹を集団で暴行する若者たちがいることを知っている。また、最近不況で、昼食にかける費用をまた少なくしたという韓国のサラリーマンたちの生活の話を聞いたし、結婚するといって外国から女性を連れてきて差別して平然としている韓国男性や、売春が禁止されてストライキをしている女性たちを知っている。そうした人たちもまた存在するというのが、確かに現実なのだろう。そうした現実は、これらのドラマの背景でもある。直接には、描かれていないが、そうした悲惨な現実も同時に描かれている。

 ドラマを見ている限りでは、愛と生や死が直接的で、飾られないまま描かれていて、見ている方がどきどきしてしまう。家族の絆や友人関係が大事にされているのは、儒教道徳のせいなのだろうか。今、日本で韓流ブームが起きているそうだが、ヨン様の追っかけをしている日本の女性たちは、年を取り、子育てを終わって、やっと孤独なひとりになった自分を発見したのかもしれない。ペ・ヨンジュンは、日本語訳で彼らのことを「あの方たち」と呼んでおり、「ファミリーの一員だ」と言っていた。そして、「彼女たちは寂しいのです」というような意味のことを言っていた。知らないうちに、彼らは、心の交流をしていたのかも知れない。

 それにしても、韓国映画や中国映画が日本で流行し、映画という総合芸術の世界を通して韓国や中国を知るということは、いいことだと思う。映画に感情移入し、彼らの喜怒哀楽を自分の身体で感じ、風景や生活や人情を味わうのは人間的に自分を豊かにさせてくれる。しかも、それらは、昔から交流のあった人びとなのに、いままであまり積極的に接してこなかった人びとの生活と文化であるだけに、とても懐かしい感覚を呼び覚ます。私たちの周りに、こんなに自分たちによく似た外国人がいたのだ。もっともっと分かり合っていいはずなのだ。
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円高ドル安は何故問題か?

2004-12-08 22:33:10 | 政治・経済・社会
 ドルの特徴として次の3つが上げられる。第1は、ドルは国際決算のデファクトスタンダードな通貨として存在していることである。第2は、ドルはアメリカが発行しており、そのアメリカは大量の国債を発行し日本をはじめとして、半分近くをアメリカ以外の国の投資家が保有していることである。第3は、ドルが国際決算の通貨と使われると言うことは各国の貿易の価格に大きな影響を与えると言うことである。そのために、常に安定が要求されてきた。しかし、今日の朝日新聞の「ドル離れ、じわり 『ユーロ資産』へ動き」という記事は、ドルの安定を脅かす事態が発生しつつあると指摘している。
 アメリカは、日本と同じように巨額の財政赤字に陥っている国であると同時に、日本とは違って多額の経常赤字をももち、いわゆる「双子の赤字」を抱えている。これがなかなか改善されないので、嫌気がさしていると言うことでもある。このため、各国の通貨当局は、すでにドルからユーロへの資産の入れ替えを進めていると言われている。最近では、中国やロシアもドルからユーロへの振り替えを始めたという話もあるという。

 「日本のように巨額なもの(米国債)を持っていると、全体の為替秩序に与える影響が非常に大きい。しかし、あまりリスクを背負い込んでもいけない」。谷垣財務相は7日の記者会見で、外貨準備でドル以外の通貨に移す可能性について、苦しい胸の内を明かした。

 日本は米国債の発行残高の1割近くをもつとされる世界一の保有者だ。ドル下落が続けば、保有資産の評価損が膨らむ。そうかと言って、ドル資産を売るとも言えない。そんな中での「ドルが下落を続ければ、巨額の資産が米国から離れるだろう」とする自民党の与謝野馨政調会長の発言内容が、イギリスで取りざたされた。いま、日本の動きを世界が注目しているのかも知れない。

 日本も現在、これから景気の上昇の中、財政改革に取り組もうとしているときである。いまドルが急落すると企業収益が悪化するおそれがあるかも知れない。しかし、日本は1ドル80円になったときでも、耐えられた。今は、少々のドル安円高など問題にすべき時ではないような気がする。国際通貨の秩序をしっかりさせると同時に、日本もアメリカも自助努力で財政を立て直していかなければならないときである。各国の政治的努力で通貨の価値を支えているのは、もともとおかしいのだ。通貨の価値は、それこそ神の見えざる手に任せるべきだし、幸田真音著『日銀券』の言葉で言えば、「見えざる手に、あなたも手をさしのべて」という言うわけだ。

 小さな政府を作り、できるだけ「市場の論理」に任せるというのが、新自由主義の精神だったが、実際は市場は政治的な思惑と国際的な投機でゆがんでしまっているのではないだろうか。ドルが円に対してもユーロに対してもやすくなっているのは、「市場の論理」ではないだろうか。「円高ドル安」を是認するというようなことを考えてみるべき時が来ているのかも知れない。
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『脳はなぜ「心」を作ったのか』

2004-12-05 16:53:07 | 自然・風物・科学
 前野隆司さんの『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房)という本は、分かり易く書かれているが、とてもエキサイティングな本だ。私は、ほとんど一気に読み終えた。茂木健一郎さんの『脳と仮想』(新潮社)では、「クオリア」が少し神秘化されて描かれていたが、前野さんは「エピソード記憶」を作るために脳が必要とした「錯覚」というように説明している。前野さんは脳のニューラルネットワークによって、すべてが説明できると考えているようだ。

 私たちは、何かをしよするとき、まず、これから行動する何かを思い浮かべ、その次にそれをやろうと意識し、ついで脳の神経に指令がいき、実際の行動が行われると思っている。しかし、アメリカのリベットという人の実験によれば、指を動かそうと意識するより早く、脳内の無意識下の活動が始まっているという。また、体性感覚野に電気刺激を与えると、本来そこが処理するはずの感覚を感じることが知られているが、リベットは、指に何か触れた感じがする感覚を起こさせるように大脳皮質を刺激してみたところ、0.5秒以上続けたとき初めて感覚として意識されたという。逆に0.5秒以下のときは、感覚として意識されないという。この二つの事例から、前野さんは、意識は実際は後追いであり、同時だと思っているのは「錯覚」だという。

 つまり、「私」(意識)は、意図した瞬間や刺激を受けた瞬間を遅れて感じているに過ぎないのに、「意識は無意識よりも前にあるように感じる」と脳に錯覚の決まりが書かれているために、あたかも「私」が初めに自分でやったことであるかのように、たとえば、指を自ら動かそうと意図したかのように錯覚しているのだ。しかも、そのようにリアルに勘違いできるように、脳内では時間調整が行なわれ、つじつまが合わせられているのだ。(脳はなぜ「心」を作ったのか』p89)


 しかし、こういったからと言って、自分の行動が誰かに操られて起きているわけではない。実際は脳のニューラルネットワークによってすべては決まり、行動が開始されているのであり、それを意識化しているだけに過ぎない。いずれにしても自分が決めて行動しているのだから、脳はあたかも意識上は、「私」が決めたと錯覚していても、現実的には不都合ではないわけだ。「クオリア」によって一層リアルに感じるのもそれが錯覚であるからだといことになる。

 実際、私たちは、指で何かに触ったとき、それは指先で感じる。決して、脳の中で感じているとは思わない。視覚から入ってきた刺激を脳が分析し最終的に外界の像を造り出しそれを見ていても、私たちは目を通して外界を眺めているように感じる。耳から聞こえてくる音についても、左側の遠くから人の声が聞こえてくると感じる。目の前のコップに向かって、手を動かし、それをつかむことでできる。それは、意識が脳の活動の結果をモニターしているからだが、あたかも主体的にそう感覚していると感じた方が都合がいい。

 ところで、私たちが、自分の意識で決めていると思っているような行動は、では脳はどのように決めているのだろうか。前野さんによれば、それはニューラルネットワークによって行われるのであるが、原理は多数決であり、反応が大きいほどリーダーシップを取ることができるという。つまり、これまでの経験や学習によって脳内に膨大な知が蓄積され、ニューラルネットワークによって網の目のように張り巡らされており、そうした知の多数決(複雑系)によって方向が決まって来るわけだ。

 「思考」とは、過去のさまざまな経験によって脳の中にストックした、「こうしたらこうなる」という行動の順モデルを使って、行動のシミュレーションをしてみることなのだ。「こうするためにはこうしてみたら?」という逆モデルを、「こうしたらこうなる」という順モデルを使っていろいろと試してみて、よりよい行動を見つけ出す行為が「思考」なのだ。(同上p226・227)

 脳のニューラルネットワークの活動による心の働きの説明は刺激的である。フィードバックとフィードフォワードという考え方や、脳内に作られる内部モデルの「順モデル」(こういう原因がこういう結果にいたるというパターン)と「逆モデル」(こういう結果になるのはこういう原因だからというパターン)という言葉が出てくる。「フィードフォワード」というのは、「あらかじめ、こうなるだろうからと予測して制御する方法」のことだそうだが、私は初めて知った。また、「順モデル」とか「逆モデル」というのは、脳の中の「内部モデル」になっているのであり、「内部モデル」というは、「周りの環境の振る舞いを、脳の中の神経回路網にモデルという形(パターン)で表現し記憶すること」である。

 こうしたニューラルネットワークをもったコンピュータを設計できれば、心はいつかシミュレーションできるようになるというのは、驚くべきことだと思う。しかし、前野さんは次のように締めくくっている。

 心はもはや謎ではない。わかってしまうということは、すこしさびしいことであるような気もするが、愛とか、真善美とかいった深遠な心の産物も含めて、心が生み出したものの原理はすべて理解可能だ。
 ただし、理解可能と予測可能は違う。心は複雑系であり、心が生み出す未來のことは予測できない。このことが、私たちに残された唯一のロマンだと言ってもいいだろう。
 だから、私たちの人生は、はかなくも面白いのだ。(同上p228・229)

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「町」は、「マチ」か「チョウ」か?

2004-12-04 09:46:50 | 政治・経済・社会
 我が埼玉県の町名は、すべて「町」を「マチ」と呼んでいるらしい。郵政公社の郵便番号検索案内によれば、例えば、入間郡大井町は、「オオイマチ」と読むし、入間郡越生町は、「オゴセマチ」と読む。ところが、奈良県では、これと反対にすべて「町」を「チョウ」と読んでいる。例えば、生駒郡安堵町は「アンドチョウ」と読むし、生駒郡斑鳩町は「イカルガチョウ」と読む。東京では、椎名町は、「シイナマチ」と読み、春日町は「カスガチョウ」と読む。これにはルールのようなものがあるのだろうか。こんな疑問を抱き、調べていた人がいた。
 朝日新聞の12月4日版「疑問解決モンジロー」に「町の名は…マチ?チョウ?」という記事によれば、同じような疑問を持った人がいたようで、その調査結果を載せている。

 関東7都県や福島、新潟、富山、石川では全町がマチ。近畿2府5県や岐阜、愛知では全町をチョウと読ませる。北海道から関西までは、すべてムラ。ソンは中国、四国、九州に偏る。


 結論から言えば、特別な理由はないそうだ。兵庫県の谷下さんという人が、「町」の読み方が混在している地方に葉書で問い合わせた結果、よくわからないという返事がきたそうだ。1件だけ、どちらの読み方がよいか小中学生に聞いて決めたようだ。もちろん、「マチ」と「チョウ」がこれほど偏った傾向を見せている以上、理由がありそうだがそれがよくわからないだけだと思う。県全体が同じなのは、おそらく新しく町ができたときに、みんなに合わせたのだと思う。

 しかし、11月1日に「マチ」としか読まなかった秋田県に美里町(ミサトチョウ)が誕生した。美里町の総務課員によると「チョウ」のほうが響きがいいそうだ。また、17年3月に「マチ」しかなかった石川県に能登町(ノトチョウ)、宝達清水町(ホウダツシミズチョウ)が誕生するそうだ。能登町議によれば「マチと呼ぶより、チョウの方が一段上のような感じがする」そうだ。これも、何事も個性的でありたいという新しい時代の流れかもしれない。おそらく、「マチ」と呼ぶか、「チョウ」と呼ぶかに流行り廃れがあったのだ。それが、地域ごとの言葉に対する好みになったのではないだろうか。
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強盗被害156万円、宅配便で返済!

2004-12-03 21:53:50 | 政治・経済・社会
 朝日新聞によると、福岡県岡垣町の遠賀信用金庫岡垣支店に男が押し入り現金を奪って逃走した強盗事件があり、犯人と思われる人物から2日、奪われた現金と同額の156万円が同支店に宅配便で送り届けられたという。宅配便には、「申し訳ないことをした。今は心が痛んでいる」などと書かれた「わび状」と、現金156万円が入っており、差出人の名前は無かったという。事件が起きたのは、11月25日午前9時10分ごろで男は30歳くらいだったらしい。
 事件が起きてから、盗んだお金を返すまでに約5日あったことになる。この間に、自分のした行為を悔やみ、お金を返すことになったわけだ。こいいうことはよくあることなのだろうか。一度盗んでしまったものを返すというのは、とても勇気のいることだと思う。もちろん、自首した方がいいのだが、お金を盗んだくらいだから、困っていたのかも知れない。店のカウンターを乗り越え、支店長に拳銃のようなものを突きつけて、「偽物じゃないぞ。金を出せ」と言って脅したそうだから、ある程度計画的な犯行だったようだ。

 産経新聞の記事では、奪われた現金は新紙幣の新券で156万4000円だったが、宅配便で届いたのは使用済みの旧紙幣で156万円だったというので、盗んだ現金はいったん使ったものと思われる。あるいは、いったん銀行に預け、あとで引き出したのかも知れない。また、朝日新聞で差出人が無かったと言うが、産経新聞によれば宅配便の伝票には差出人の住所と氏名が記入されていたのだが、実在しないものだったと述べている。差出人なしでは、宅配便は送ってもらえないので、多分産経新聞の記事の方が正確だと思われる。

 さらに、毎日新聞には、手紙の内容がもう少し詳しく触れられており、「職員に迷惑、恐怖を与え、毎日後悔している」と謝罪し、「罪がなくなるとは思わないが自分の気持ちが楽になれば」と返却する動機が書いてあったという。職員に「迷惑や恐怖」を与えなければお金を盗んでもいいのかと言う問題はあるが、もう少しで自首に結びつきそうだ。個人宅ではなく、銀行で金を盗んだのは、人に迷惑をかけるのを少なくしたと言うことでもなさそうだ。実際、銀行からの盗みは、普通の人からの盗みと比べて、迷惑がかかる人が少ない。当然保険などがあり、単なる盗みならお金は戻って来るはずだと思う。

 それでも警察は、強盗事件として男の行方を追っているそうだから、返したからと言って許されるわけではないことになる。警察は、宅配便を犯人が自ら送ったものと考え、手がかりにするはずだ。ある程度社会的な事件になってしまったので、銀行がもういいと言ったからと言って、追求しなくなるということはなさそうだが、こうした事態なので、警察の方もどうしてもという気持ちもなくなるかも知れない。年の瀬も迫り、不景気な時節柄、この男のことはもう放っておいてもいいのではないかと私は思った。
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