今市日記 ( 納豆有時心和 )

いまいちすっきりしない納豆関連情報をメインにして日々の状況を書いています。

東村山の正福寺へ行ってきました

2013年08月08日 | 多摩に散歩
今日は東村山にある正福寺というお寺に行ってきました。



東村山駅から10分ほど歩いたところにあるこのお寺はなかなかすごいお寺です。

それは、このお寺の地蔵堂と呼ばれる本堂は室町時代の1407年(応永14年)の建立で鎌倉の円覚寺舎利殿とともに
禅宗様建築の代表的遺構として名高く、東京都内の木造建築としては唯一の国宝に指定されています。

また、この地蔵堂は地元では千体地蔵堂と呼ばれていて、地蔵堂の中には願をかけた人たちが奉納した千体の小さいお地蔵
さまが奉られています。




そして普段は閉ざされている地蔵堂が1年のうち8月8日の施餓鬼供養、9月24日の法要、11月3日の文化財ウイ-ク・
地蔵まつりの3日だけ内部を参観できることになっているため本日8月8日に緊急で行ってきた次第です。

まずは山門が迎えてくれます。







そしてその奥に国宝である本殿の地蔵堂が見えてきます。




今日は8月8日で、内部を公開しているため普段閉じている正面の戸が本日は開いています。



外から見ると地蔵堂は二層のように見えますが中は単層(平屋)です。
地蔵堂の中は中央に地蔵堂の本尊である地蔵菩薩が奉られていて、その両脇に千体の小さなお地蔵さまが奉られています。













願い事があるときに1体借りて帰り、願い事が叶うと新たに1体作って2体にして返す、ということにより沢山になったとの
ことのようです。


今日は公開日とのことで地元のボランティアのガイドさんたちが建物の構造やいわれなどいろいろ説明してくれたので
大変勉強になりました。











多摩に散歩・・・西国分寺(2)

2013年07月31日 | 多摩に散歩
資料館を後にして向かったのは武蔵国国分寺(僧寺)跡です。

武蔵国国分寺は奈良時代の天平13年(741年)聖武天皇が全国60余国に国分寺、国分尼寺の建立を命じて造られたものの
一つですが、鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)に新田義貞と北条泰家の間で行われた「分倍河原の合戦」で残念ながら焼失。

現在残っているのは礎石だけです。

国分尼寺跡は発掘調査が完全に終わり遺跡公園の中に組み込まれていますが、国分寺跡のほうはまだ発掘調査が一部続い
ているようです。


















このテントの部分はまだ発掘調査中なのでしょうか?





次の目的地は今現在残っている武蔵国国分寺です。

1333年に焼失した国分寺跡からちょっと歩いたところに現存の武蔵国国分寺があります。

建武2年(1335年)新田義貞が薬師堂を再建したそうです。












奥に見えるのが薬師堂です。








歴史の重みを感じます。


また、国分寺の境内には「万葉植物園」というのがあります。




これは書かれている通り聖武天皇が命じて造られた国分寺が栄えていたころ編纂された「万葉集」の歌に詠まれている草花を
集めて当時の人々の考え方や生活などを知り、その昔をしのんでほしいと造られたもので約160種が説明版付きで植えられ
ています。













また、この国分寺から小川沿いに続く散策道は「お鷹の道」遊歩道と呼ばれ国分寺駅方面へ続いています。






説明書きによると、国分寺付近が江戸時代に尾張徳川家の鷹狩の狩り場になったのが起源でこの名がついたようです。









ここを流れる小川にはホタルも生息するようです。













多摩に散歩・・・西国分寺(1)

2013年07月30日 | 多摩に散歩
久々に「多摩に散歩」をしてきました。

今回は西国分寺です。と言うからには「武蔵国国分寺」が必然的にメインとなります。






線路沿いにはJRがこんなしゃれたこともしていました。なかなかやるもんです。





西国分寺の南口に出て、まっすぐ史跡通りを歩いていった突き当りに現れてくるのが最初の目的地の「武蔵台遺跡公園」です。







この遺跡公園にはその名の通り遺跡が置かれているのですが、その遺跡は国分寺の関連のものではなく、それよりはるか昔、今から
約4000年前の縄文時代の遺跡です。

近くの遺跡で発掘された住居跡(敷石住居)を発掘されたままの状態でこの公園に移し替えたそうです。










この遺跡公園の武蔵野線の線路寄りに下り坂があってそこには下の立札?が置かれています。




そう、この武蔵野線に沿った細い道こそは「旧鎌倉街道」です。







そんなに長い距離ではありませんが、一瞬現実を忘れさせてくれて自然の中に迷い込んでしまったような気がしますが、ほどなく
武蔵野線の電車の走る音が聞こえてきて現実に戻されます。

この旧鎌倉街道を下っていくと次の目的地である「国分尼寺跡」にぶつかります。


















武蔵国国分尼寺跡は今は礎石しか残っていませんがかなりの規模だったことをうかがわせてくれます。





この国分尼寺と国分寺とは、現在武蔵野線と府中街道を挟んで向かい合っていますが、奈良時代に建立された当時も
東山道武蔵路という広い古代道路を挟んで向かい合っていたそうです。

国分尼寺跡から武蔵野線のガ-ド下をくぐって反対側に出て府中街道を渡ったすぐのところに資料展示室があったので
ちょっと寄ってみました。














to be continued


多摩に散歩 ・・・ 三鷹をフォトチャンネルに掲示しました。

2013年06月26日 | 多摩に散歩
5~6月に散策した「多摩に散歩」の三鷹篇をフォトチャンネルに掲示しました。

三鷹の中央通りのいくつかの記念碑、太宰治・山本有三など文豪の記念館、風の散歩道から
続いていく井の頭公園とそこにある神田川の源流など歴史や自然を感じさせてくれるものが
色々あって楽しかったです。





> 多摩に散歩・・・三鷹


多摩にはまだまだ色々な街の色々な歴史、自然があるのでこれからも暇をみつけてまわって
みたいと思ってます。


多摩に散歩・・・三鷹(3)

2013年06月06日 | 多摩に散歩
今回は井の頭恩賜公園の中を散策します。

井の頭弁財天の表参道の入口である黒門をくぐりしばらく歩いていくと弁財天に到着です。
池の中に祀られています。
源頼朝が建立したとされています。





この日は結構な賑わいでした。
本堂の裏手に銭洗い弁天があり、ここでお金を洗うと財産が増えるご利益があるといわれています。








> 井の頭弁財天



弁財天からの景色を眺めながら少し歩くと徳川家光の記念石碑に着きます。







井の頭という名称は徳川家光によって名づけられたと伝えられ、小刀で弁財天の傍らのこぶしの木に
その名を刻んだとも伝えられているそうです。その伝承を記した石碑が上の写真です。


さらに井の頭池の景色を眺めながら井の頭池に沿って上に歩いていくと次に見えてきたのは「お茶の水」
でございます。
由来はお札に書かれている通りですが、水は今はもう自力では湧いてはいないようです。











さらに井の頭池に沿って歩きます。









途中、ボ-ト乗り場もあり、若いカップルで賑わっていました。
そしてやっと、水門橋に到着です。

ここにこそまさに神田川の源流があります。










ここから25kmで隅田川に合流しその水は東京湾に注がれています。






いやあっ、いささか疲れてしまいました。
井の頭公園駅から吉祥寺へ出てちょっと寄り道して帰宅しました。










多摩に散歩・・・三鷹(2)

2013年06月05日 | 多摩に散歩
今回三鷹に行ってきて、ちょっと街をみてきました。
そこで「多摩に散歩・三鷹」の2回目でございます。

> 多摩に散歩・三鷹(1)

三鷹という地名はかつて徳川将軍家及び御三家が鷹狩を行なった鷹場の村々が集まっていたことと、
世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来する(三領の鷹場)と言われているそうです。

三鷹は歴史の町であるとともに多くの作家が愛した町でもあります。
今回のスタ-トはここからです。





太宰治文学サロンは太宰治の没後60年、生誕100年を記念して平成20年に開設されたそうです。
中は完全に太宰治の世界、直筆原稿の複製や初版本など貴重な資料が公開されています。

> 太宰治文学サロン


次に向かったのは「山本有三記念館」です。











この洋館は昭和21年まで山本有三が暮らしていた家で、今は記念館として山本有三の生涯や作品を紹介しています。
よく整備された庭には「路傍の石」記念碑も置かれています。

> 山本有三記念館


さて次は山本有三記念館を出て「風の散歩道」を井の頭公園方面に向かい萬助橋を右折します。






しばらく歩くとジブリ美術館が出てきて、そこを通り過ぎて井の頭公園の第二公園を縦断して
目的地を目指します。



尚、ジブリ美術館は完全予約制で、ぱっと思いつきで行っても入れませんので注意して下さい。

> 三鷹の森ジブリ美術館


次の目的地は道標・黒門でございます。










この黒門から続く道は今は閑静な住宅街となっていますが、かつて井の頭弁財天への正面玄関すなわち表参道で、
黒門はその入口だったわけです。

この黒門のかたわらにある小さな祠には大黒天の石像が置かれています。






to be continued

多摩に散歩・・・調布(2)

2013年05月25日 | 多摩に散歩
調布と言えば深大寺を避けて通るわけにはいきません。
と、いうことで次に向かったのは深大寺でございます。

最初に行ったのは深大寺水車館です。








現在の敷地には明治末期に地元の人々が水車組合を作り、お金を出し合って建てた水車小屋があり、
戦前まで実際に使用されていたそうです。

西側を流れる逆川には遊歩道がつくられ、散策が楽しめるようになっています。




また、小さいですが資料館もあり無料で見学できます。






次に深大寺の山門をくぐり、本堂へ行きおまいりをしてきました。
都内屈指の古刹です。









最後は深大寺水生植物園内にある深大寺城跡でございます。
ここは深大寺水生植物園の丘の上にあり、戦国時代に上杉朝定が後北条氏(小田原)と戦う際に築いたそうです。

途中数分ですが光があまり入ってこない森の中のようなところを歩いて抜けると到着です。









城跡があるのみですが、歴史を感じさせてくれます。




あと、祇園寺と常性寺を回ってみたかったのですが、力尽きてしまいました。










多摩に散歩・・・調布(1)

2013年05月24日 | 多摩に散歩
調布をぶらぶらしてきたもう一つの目的は歴史散歩でございます。
と、いうことで調布で「多摩に散歩」をしてきました。

調布の駅前の賑やかな通りから少し歩くと歴史の街に変貌します。

調布駅北口からスタ-トし、まず最初に行ったのは大正寺でございます。








このお寺の草創は大正4年。近くの三ケ寺栄法寺・不動院・宝性寺が合併し、寺号をそのときの
年号に因んで「大正寺」としたそうです。
見学自由とのことで、中に入ろうとしましたが、寺僧が二人立っていて睨まれちゃったので、断念
しました。


次に行ったのは布多天神社でございます。







ここは江戸時代に甲州街道が作られ、上石原・下石原・上布田・下布田・国領の五宿ができ、
布田五宿と呼ばれていましたが、その布田五宿の総鎮守で五宿天神と崇め祀られていたそうです。

天神様というくらいですので、菅原道真にまつわる碑もございます。






ご神木は老朽化が進み、補修工事中でした。




次に行ったのは、虎狛神社です。
ここの本殿は江戸時代に建てられたもので、調布市内では最も古い建造物の一つだそうです。








ただ、常駐する管理者もいないようでちょっと荒れた感じがしました。



to be continued

多摩に散歩 ・・・ 三鷹(1)

2013年05月10日 | 多摩に散歩
多摩に散歩、今回は三鷹でございます。



諸般の事情で何かと行くことが多くなった三鷹。折角なのでうろうろしてきました。
まずは三鷹駅南口の中央通りです。



ここは三鷹駅前の中心の通りですが、通り沿いには三鷹ゆかりの文人の碑がいくつか設置されています。


一つ目は戦前から終戦直後まで三鷹に住んでいた「路傍の石」などで有名な山本有三の碑。





碑には山本有三の「生きとし生けるもの」の一文が刻まれています。

この世にいきているものは、
なんらかの意味において、
太陽に向かって
手をのばしていないものは
ないと思います。


次は昭和の初めから亡くなるまで40年三鷹で過ごした三木露風の「赤とんぼの碑」。
あの「夕焼け小焼けの赤とんぼ・・・」の作詞家です。






3つ目は三鷹市の名誉市民でもある武者小路実篤の「人間万歳」の碑。
碑に刻まれている文字は細かく、また薄くて老眼鏡を忘れた私には読み取れませんでした。




最後は、1930年代を通して三鷹に住んでいた太宰治の碑。



亀井勝一郎の「無頼派の祈り-太宰治」の中の太宰治が三鷹市下連雀に住んでいた頃の様子を
記した一文が刻まれています。


次に玉川上水に沿ってぶらぶらしてみました。




「風の散歩道」です。まわりは都市化されていて、玉川上水とその両側だけが自然状態という、一種違和感の
ある自然がそこにありました。



でも、こういうところをぶらぶら歩くのは気持ちいいです。

ここをしばらく歩いていくと、住宅側の歩道に一つの碑があります。
大きな石と「玉鹿石(ぎょっかせき)」と刻まれた碑があるだけで何の説明もありません。





しかしこれこそは、昭和23年6月、太宰治が心中を図った際に入水をしたとされる場所を示す
無名碑だそうです。










多摩に散歩 ・・・ 立川市(2)

2013年04月17日 | 多摩に散歩

立川市の歴史散歩、昨日の続きでございます。

立川という地名の由来については、ウィキペディアによると次の二つがあるそうです。

 (1)武蔵国府が現在の府中市にあった時代、その府中宿付近より見て現在の多摩市付近で東西に連なる山を多摩の横山と呼び、

    その多摩の横山から見て多摩川が縦方向(南北)に流れている近辺(現在の立川、日野近辺)を立の河と呼んでいた。

    立の河が次第に変化して現在の立川になったと言われている。

 (2)地方豪族立川氏(たちかわ・し)が、現在の普済寺に城をつくったことから立川(たちかわ)になったと言われている。


この二つの説ですが、次に私が行ったのは(2)で出てきた普済寺でした。








普済寺は立川氏が鎌倉時代にこの地に居館をつくり、その後南北朝時代にその敷地内に寺(普済寺の前身)を創り、戦国時代末期に
立川氏が滅亡し、お寺だけが残って普済寺となったようです。





休憩所の椅子は手のひらの形になっています。
お釈迦様の掌でしょうか。





また、このお寺には国宝の「六面石鐘」があります。
ただし、中に入ることはできません。




いやぁ、由緒あるお寺でした。







最後は「山中坂地蔵堂」でございます。
ここは、これまでの諏訪神社、中嶋家の門、普済寺に比べると遥かに歴史は浅く太平洋戦争末期、昭和20年4月の
できごとですが、とても悲しい出来事が起こりました。

この地蔵堂のある場所には、太平洋戦争のころ防空壕がありましたが、昭和20年4月4日のB29爆撃機の空襲で
爆弾の直撃を受け42名が犠牲になったそうです。

その位置に地蔵堂があり、隣りに「山中坂悲歌(エレジ-)」という山中坂の悲劇を叙情的に記した歌碑が作られた
そうです。










普段何気なく通り過ぎているところでも、ちょっと気にしてみると、思わぬ歴史が隠れているかもしれません。















多摩に散歩 ・・・ 立川市(1)

2013年04月16日 | 多摩に散歩

多摩の歴史にちょっとでも触れてみようと、まずは立川をうろうろしてみました。




立川駅をスタ-トしてまずは諏訪神社へ。
1670年に建てられ、市の有形文化財だった本殿は1994年の火災で焼失、現在の本殿は
2002年に再建されたものだそうです。



天皇陛下の即位20周年の記念植樹された木もあります。




中央に諏訪神社、左側に八幡神社、右側に稲荷神社が棟続きになっています。








次に向かったのは「中嶋家の門」、諏訪神社の表参道から西の方向に古風で重厚な門が建っていました。
ただ、門の後ろに建物はなく石碑が1基あるのみ、元々は代官屋敷の門だったそうですが、それを柴崎の
名主、中嶋家が買い受けたそうです。






                                          次に続く・・・・。


多摩に散歩 ・・・ 立川市

くめがわ電車図書館

2013年03月27日 | 多摩に散歩
先日、東村山の久米川を散策してきました。

満開の桜並木の横に西武の電車が止まっています。



この状態で、電車が動くとはとても思えません。
そう、この電車は図書館なんです。





くめがわ電車図書館。児童図書館ですね。
昭和42年に、地域のおかあさんたちの手によって開館したそうです。




今までまったく知りませんでしたが、随分前からあったようです。
すぐ近くにも知らない、いいところがたくさんありますね。