劇中、“信義”と訳される“TENET”には他にも“教義”、“主義”という意味があり、本作はまさにクリストファー・ノーランという男の映画教義そのものである。フィルム原理主義、フィジカルと実体にこだわったアクション、劇場でこそ真価を発揮する音響設計、そして時間というテーマへの妄執…そのノーラン教義はこの2020年に大きな使命を託された。新型コロナウィルスによって新作映画の上映が途絶え、映画産業が風前の灯火となる中、観客を呼び戻さなくてはならないのだ。ノーランは劇場公開にこだわり、配給のワーナーブラザーズもその意向を尊重する英断を下した。アメリカでは未だNYはじめ都市圏での劇場再開が叶わないため、本作の北米興収に対しては失望の声も上がっているが、既に感染が収束傾向にある各国では大ヒットを飛ばしており、ひとまずはその使命を達成しつつあると言っていいだろう。
事実、久しく忘れていた劇場体験の悦びを味わわせてくれるアクション活劇である。素晴らしい身体性を持った主演ジョン・デヴィッド・ワシントンが駆け抜けるオープニングアクションからボーイング1機を丸々破壊するスペクタクル、過去と現在で繰り広げられるトリッキーなカーチェイスとあの手この手で楽しませてくれる。初登板となる気鋭ルートヴィッヒ・ヨーランソンが存在感を発揮し、クールなサウンドがノーラン映画に新風を吹き込んでいるのも嬉しい驚きだ。そして2020年にフィルム逆回転という何とも原始的映画手法を用いてSF映画を撮っている事にノーラン教義を見るのである。
またかねてより007シリーズへの愛を公言してきたノーランがほとんどエントリーシートの如くオマージュを捧げ、ボンド映画のフォーマットに沿っているのが興味深い。デヴィッド・ワシントンがスーツ姿のスパイ役で一足早く“黒人版ジェームズ・ボンド”を達成すれば、ケネス・ブラナーは典型的なボンド映画のヴィランであり、エリザベス・デビッキはボンドガールの立ち位置である(個人的には『ナイト・マネジャー』と全く同じ“愚かな選択をした美女”を配役されるデビッキには解放されて欲しいのだが)。
だがノーラン教義において時にキャラクターはストーリーやヴィジュアルよりも下位となる。特に本作ではボンド映画的なパスティーシュの域を出ない。アーロン・テイラー・ジョンソンという才能ある俳優のあまりのムダ遣いからもその愛のなさはわかるだろう。デヴィッド・ワシントンの役名に至っては“Protagonist=主人公”である。本作にはノーラン教義を逸脱し、刷新してきたヒース・レジャーやディカプリオ、マコノヒーはいない。
ここまでストーリーをややこしくする必要があったのだろうか?僕は初見で全く理解できず、続けて2回見る事でようやく理解できた。実はそれこそが『テネット』の正しい見方でもある。かつて『メメント』では無限を彷徨い続けるガイ・ピアースの姿に時間を前にした人間の無力さがあったが、本作の主人公は自らの意思でメビウスの輪に残り、それを維持し続ける。20年の時を経たノーラン教義にはまるで時間をも操れるかのような自信があり、観客が再びメビウスの輪に戻る事で初めて物語が完成するのだ。
本来ならば『テネット』はサマーシーズンに公開される無数の“普通のハリウッド映画”の後に公開され、そのクリエイティヴィティを称賛されるハズだった。しかしコロナショックによって“映画館を救う”という予想外のミッションを帯び、おそらくある程度、その使命を達成し、多くの人に記憶される映画となるだろう。
だが「感じるな、感じろ」という境地にも達しなかった僕はノーラン教義に弾かれたような気がして、ちょっと寂しいのだ。
『テネット』20・米
監督 クリストファー・ノーラン
出演 ジョン・デヴィッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、エリザベス・デビッキ、ケネス・ブラナー、アーロン・テイラー・ジョンソン
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます