「裁かれる者 沖田痴漢冤罪事件の10年」沖田光男 2010かもがわ出版
文章として書かれてはいないけれど、
この本の本当のタイトルは、
「裁かれるべき者達」
だろう。
被告人は裁かれる立場であるが、
裁かれる立場でありながら実は
裁判官の裁判を裁いているのだ。
満員電車の携帯電話通話を注意したら、痴漢扱いで捕まる。しかも現行犯逮捕じゃない。状況からして腹癒せにでっち上げたと思える。おそらく捜査上まずい状態だと検事も気付いたのだろう、21日もの拘留を受けたが当然のように不起訴になる。
定年間近、失う物は少ない。それよりも傷付けられた自尊心を回復することの方が大切だった。そして、妻や知人はそれを応援し、損害賠償請求(国賠訴訟)を起す。
当然、真実は本人しか知ることは出来ないのだが、状況と最後の証人の証言で信じるに足ると感じるところである。
争点はともかく、その捜査から裁判の実態。それは、痴漢で起訴された場合と同じ経緯をたどる。刑事・民事の区別はないようだ。そこには余りに汚い人間たちのやり口があった。
証拠の提出を求めると、「間違って処分」と記者会見まで開く検察。コピーの存在も否定し続けるが、高裁指示が出ると無いはずの物が(一部)提出される。
検察側事実認定の変遷。(これが冤罪被害者側にあると極端に不利な扱いをされるのに!)
最高裁の弁論へ!
「それでもボクはやってない」のおかげ、マスコミ注目。
国と検察の責任問われず。
差し戻し審では、女性の虚偽までは認めず。
・・・(女性の虚偽の疑いはなくならないが、それがあったと認めるまでには至らず。そういうことで正しい裁判なのかもしれない。しかし、それであれば、痴漢での裁判はほとんど無罪になるのが相当なはずであり、裁判所の判定は矛盾することになる)
そして、1999年に起こった事件は、未だ最終解決(納得)を見ていない。
21世紀日本
裁判員制度も始まり、
裁判所は
最高の
アミューズメント・パークになる。
さあ、みんなで裁判に出かけよう!
- 誣告罪
- 国家賠償
- 人権裁判
- 国家(制度)批判
- 国賠訴訟は別の機関(国賠裁判所)で行うべき
- 【針の穴に象を通すような過酷な裁判】
- 権力の誤りをチェックするという裁判の機能は完全に形骸化
- 起訴休職
- 被害者補償
- 「嫌疑なし」で不起訴になると、検事裁定で支払われる。
- 日本への(繰り返される)国連自由権規約委員会勧告(人権)
- 自由権規約「選択議定書」を批准していない日本
- ジェンダー教育の遅れる日本
- 裁判組織(検事・判事)における女性の少なさ
- 取調べに弁護士が立ち会えないのは、国際人権規約違反
- 調書裁判(判検互助、手抜き)
- 判検交流
- 検察調書で裁判官の心証形成
- 判事と検事は裁判所以外では会えないようにすべき。
- 調書への署名・捺印を拒んでも罪にはならない。
- 法の人為的解釈、法の科学の乱用
- 検事も判事も人間、過剰な期待と信頼は失望を増すだけ。
- 出世(システム)が冤罪を生む
- 出世のために有罪判決を書く
- 出世のために現行犯逮捕をする
- 法廷で嘘をつく警察官
- 「この判決文には権力の犯罪があぶりだされている」
この場合も妻の「好奇心」と怒りが推進力となっている。恨みがましいようなことは書かれていないが、奥さんの実家とは上手くいかなくなったようだ。それでもへこたれない、なんか、すごく素的な奥さんですね。
- 「訳もなく問答無用で権力により踏みにじられた悔しさ、無念さ、そして怒りが行動を起させた」
- 「隣の人の起した国賠訴訟を他人事として傍観している限り、この国の人権状況は少しも進歩することはない。司法はますます反動化し、社会秩序は公権力の管理下におかれ、人権は無視され続けていく」
- 「原告の家族でしかない私は、原告になり切ることはできない。身近にいて、その気持ちを察するだけである」
- 「私たちが求めているのは人間としての最低限の誇り、人権である」
- 「人権は与えられているものではなく、権力との、社会とのそして自己とのたたかいのなかから掴みとるものなのだ」