で、これら一連の出来事を通して、私は「ルビンの壺」を思い出しました(前回の続きです)。
心理学でよく使われる絵で、黒い部分にフォーカスすると壺が見え、白い部分にフォーカスすると二人の人物が向き合っている絵が見える。
どちらにフォーカスするかで見えるものが違ってくるけど、両方を同時に認識するのはむずかしい。
図と地が逆転する瞬間というのは、けっこうダイナミックです。
今まで壺だと思っていた絵が、ある瞬間を境に二人の人物像に変貌するのだから。
これ、現実の世界でもわりと頻繁に起きているのですが、なかなか気づかない。私もそうでした。
これまでのことをいろいろ考えてみて、もしかすると私が見ているものと彼ら(世間一般の人たち)が見ているものは、この図と地くらい違っていたのではないか、ということに気づいたわけ。
でも、それって私だけが特殊なわけではなく、視点の違いによって見ている世界というのはとんでもなく違いうる、ということ。
大半の人が、自分が見ているものと隣にいる人が見ているものは同じである、という認識にたって物事を考えがちですが、
もしかすると隣の人はエイリアンで、視力も聴力も能力も全く人間とは異なる生物であるかもしれない・・
そう考えてみると、実に世界は多様で面白い場所ではないか、と思えてきます。
多少の行き違いや誤解があったとしても、それはその「違い」に気づかせてくれるチャンスでもあるわけで、どんなことでも、これまでわからなかったことがわかる、ということは嬉しくありがたいことだと思います。
また一つ進歩したね、と思えるから。
最近になって、私はもしかすると隠れADHD(あるいは隠れアスペルガー)なのではないか、と発見したのですが、
以前も、似たような記事を書いているのでよかったら参照してみてください。
「映画に登場するアスペルガー症候群について少し・・」
https://blog.goo.ne.jp/neko-pin/preview20?eid=27bcdc7c83291d06faac1a24248061d0&t=1611127681459
それはともかく、こうして視点を移動してみると、これまでの人生でうまくいかなかったことの理由の一端が見えてきます。
発達障害というのは遺伝性なので、私の子どもたちもその傾向があるし、私の両親にもその傾向があったのではないかということ。
両親は昔の人なので、そういう概念があることすら知らなかったのですが、もしかすると父にそういう傾向があったのかもしれない。
父が非常に冷酷に見えたのは、発達障害(orグレーゾーン)による共感力や想像力の低さ、コミュニケーション力の低さ、などに起因していたのかもしれない。
そして、両親にとって、私は非常に扱いにくい子どもであったのかもしれない。
小学校の頃、通信簿にいつも「協調性に欠ける」と書かれていたのはこのことだったのかもしれない・・
といろいろ思い出して、図と地のように世界が反転する瞬間を味わったのでした。
そして、そうであるならば、何も恐れる必要はない、と思えてきます。
だって、これが私なのだし、逆立ちしてもこれをひっくり返すのは無理だし、ここで生きていくしかないし、人に合わせる必要もないのだ、とはっきりわかったからです。
で、これは人生に限らず世の中でけっこう頻繁に起きていることではないかと思います。
私たちが、これこそが真実である、これは揺るがすことのできない事実である、と思い込んでいることの多くが、図と地を反転させることで全く違う絵柄が浮き出てくるかもしれない・・
私たちは、そういうフレキシブルな世界に生きているのだ、ということを改めて自覚したいと思います。
世界って本当に多様で面白い場所だと思います。
地球にやってきてよかった。
(エイリアンか、私は?)