昨日、たまたまTVで映画「アイ・アム・レジェンド」をやっていたので見てみました。
「アイ・アム・レジェンド」(フランシス・ローレンス監督 2007年)
荒廃したNYの風景がなかなかよくて、つい見入ってしまいました。
人間が去った後の都会というのはこうなるのか。
でも、実際のところ、人間たちは去ったわけではなく、変貌したのでした。
(以下ネタバレ)
ガンの特効薬の開発中に、ウイルスが突然変異を起こして、それに感染した人間はゾンビのような吸血鬼のようなダーク・シーカーと呼ばれる生物に変貌する。ダーク・シーカーに襲われた人間はダーク・シーカーになる。こうして、人類絶滅の危機を迎えた地球。
生き残ったロバート・ネヴィル(ウィル・スミス)はこの病気を治癒する薬の開発のため、一人NYに残り、研究を続けていました。
その孤独感たるやすさまじい。誰一人生きている人間のいないNY。犬のサムだけが生きている仲間。サムがいなかったら耐えられなかったでしょう。
このダーク・シーカーと呼ばれる新種の人類は、恐ろしく狂暴かつ強靭で、全力疾走し、なおかつ知能も失っていない、という超人的な生き物に変貌しているのです。ネヴィルを陥れるための罠を仕掛けたりするくらい頭がいい。
ただ紫外線を浴びると死んでしまうので、昼間はビルの奥などに隠れ、夜になると出てきて獲物を探す、という日々を送っているわけです。
そこで、彼はダーク・シーカーを生け捕りにしては新薬開発のための研究を繰り返していました。
ダーク・シーカーは非常に恐ろしく、人間の良い面(愛とか思いやりとか)を一切失くした貪欲な本能だけの存在になりはてているように見えます。
それを助けたい、と彼は思う訳です。すべてはウイルスのせいだ、病気なのだと。
そして、ついに彼は新薬開発のための血清の取得に成功するのですが、その直後にシーカーたちが押し寄せてきて・・
しかし、その血清はかろうじて生き残った人たちのコミュニティに送られ、彼自身はレジェンドとなる、というのが全体のストーリーです。
つまり、ここには、悪(邪悪さ)というのは病気なのだ、という暗喩が込められているんじゃないか、と思ったのです。
悪というのは病気なのか? ガン細胞のような生命を蝕む存在なのか?
だからこそ、あれほどまでに狂暴で強靭な生命力を持っているのか?
人間の本質は善で、愛情深く他者を思いやる気持ちに満ちており、貪欲さや殺意のような邪念は人間本来の性質ではなく、歪められた一種の病気のようなものなのか??
ならば、この病気を治癒する薬を開発すれば、悪は退治できるのか??
この映画には原作があって、実は原作の意図するところは全く別にある、とネットにありました。
リチャード・マシスン著「I Am Legend」
ダーク・シーカーはウィルス感染により誕生した新種の人類で、彼らは新しいコミュニティを作りつつあった、そこへネヴィルがやってきてダーク・シーカー狩りをした。言ってみれば彼こそが侵略者である、というのが作者の本来の意図だというのです。
そうした視点で見てみると、彼は人類救済のレジェンドどころか、悪の侵略者となりうるわけです。
映画というのは、興行成績をあげることが第一なので、万人受けするストーリーになりがちですが、こうした解釈の違いは面白いなあと思いました。
映画に限らず創作されたものには、必ず作者の意図(あるいは隠された意図)があるので、それを読み解くのも映画を見る楽しみの一つかと思います。
はたして邪悪さというのは病気の一種なのか? はたまた邪悪さというのは見る者の立場で変化するのか?
というように、様々な視点で見てみると、また別の発見があるかもしれません。
映画は一種の大衆洗脳装置でもあるので、心して見たほうがいいのですが、
それでも、やっぱり私は映画が好きだなあ。
私たちを、荒廃したNYや茫漠とした宇宙空間へ連れていってくれるんですから。
暑い夏は映画を見て過ごす、というのもいいかもしれませんね。