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世界と日本のボーダー文化

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書評 前田塁『紙の本が亡びるとき?』

2010年02月09日 | 小説
デジタル時代の「文学」の行方は?
前田塁『紙の本が亡びるとき?』(青土社) 
越川芳明 

 今日、アメリカではアマゾン社の「キンドル」や、マッキントッシュ社の「iPad」というデジタルブックの専用末端が販売される一方、日本では広告出稿先が紙媒体からネットに移り、広告収入に依存していた雑誌が休刊に追い込まれている。検索エンジンのグーグル社が著者に無断で書籍をスキャナーで読み取り、それらをアーカイブ化するという知らせに日本の出版業界が騒然としたのもつい最近のことだ。

 そんなデジタル情報化の時代に「文学」はどうなるのだろうか。著者が「確信に近い結論」として、あらかじめ差し出しているのは次の一点だ。

「紙の書籍が遠くない未来、これまで果たしてきた役割を終える」

 「もちろんそれは、「本」がなくなることを意味するものではないし、紙の本が完全に失われることでもない。しかし、かつては当然だった写真の「プリント」が、わずか十年のあいだにほぼすべてデジタル化されたように・・・「紙の書籍」は人々の日常から離れてゆくだろう」

 その根拠として著者が挙げるのは、紙の本の商品としての側面だ。小売店のビジネスモデルに問題があり、長年、「販売委託」制度に依存していた小さな書店が次々につぶれている。輸送・人件費の比率が上昇し、そうした制度が大きな岐路に立たされている。

 では、このデジタル時代に、「文学」は亡びてしまうのか? アメリカの作家ロバート・クーヴァーは、早くからブラウン大学の創作科で電脳小説(ルビ:ハイパー・フィクション)を推進し、文学的な想像力を、CG(ルビ:コンピュータ・グラフィックス)における技術的な革新に結びつける努力をしてきた。前田氏もまた「ジャンル・クロスオーバー」の可能性を示唆している。

 「創作者は(すでに行なわれている)メディア・ミックスに加えて従来とは逆の発想つまり他ジャンルのコンテンツのテキスト化に比重を移すこともできる(・・・たとえば松浦寿輝や堀江敏幸といったテクスト巧者による恋愛ドラマやコミックのノベライズが実現してみたら、デュラスのような作品が生まれるかもしれない)」と。

 本書は、これまで書いてきたエッセイを集めたものであり、「紙の本が亡びた」後の見通しについて、安易な答えが導きだされているわけではないし、体系的に書かれているわけでもない。むしろ、電子メディアの特徴として著者が挙げる「非・線型性」を反映して、あえて断片的に語り、編んだ本にも見える。「紙の本が亡びる」というテーマを、紙の本で語るというパラドックスを演じたのかもしれない。

(『すばる』2010年3月号、315頁)