過激なまでにコミカルなクィア映画
『フィリップ、きみを愛してる!』
監督・脚本/グレン・フィカーラ、ジョン・レクア 製作総指揮/リュック・ベッソン
越川芳明
冒頭のショットで、青空に白い雲が浮かぶ。そこに、ベッドに瀕死の状態で横になった男を真上から撮ったショットがつづく。風で移動する不定形の雲とベッドにしっかり拘束された男。この二つのショットは、「アイデンティティ」の揺らぎという、この映画のテーマを規定する象徴と見なすことができる。
形を変えて何にでもなれる雲の「自由」と、どんなにあがいても何にもなれない男の「不自由」の対比が見事だ。主人公のスティーヴン・ラッセルは、赤ん坊のときに養子に出された事実を養父母から聞かされたショックが癒えない。長じて警察官になり、その立場を利用して自分を見捨てた実母を探しあて詰め寄るが、彼女からは冷たく門前払いを食わされる。
スティーヴンには妻と娘がいて、日曜日には、妻と教会に行き、オルガン奏者として活躍している。しかし、それは「偽装の人生」で、彼にはもう一つの顔がある。妻に隠れて、男の恋人と密会を重ねているのだ。
映画の基調となるトーンは「喜劇」だ。スティーヴン役のジム・キャリーの抱腹絶倒の演技はもちろんだが、敬虔すぎて、ひとつ間違えるとキリスト教原理主義に陥りかねない妻を演じたレスリー・マンのとぼけた演技が、ゲイによる「アイデンティティ」の模索という、シリアスなテーマを笑いに変えてしまう。
妻は何ごとも「神の思し召し」と語り、セックスを終えたあとも、健康を気にして牛乳を飲んでいる。
この映画は、ヒューストンの新聞社に勤めるジャーナリスト、スティーヴ・マクヴィカーが取材執筆した同名のノンフィクションに基づいている。舞台は、ヴァージニア、テキサス、フロリダと、アメリカの保守主義を体現するような土地が選ばれている。スティーヴンが自らの「二重生活」から脱して、本来のクィアとしての人生を全うするまでの、それこそ波瀾万丈なエピソードが目白押しである。
スティーヴンは、実母に冷たくあしらわれた後、家族と共にテキサスへ移住。そこで、交通事故に遭い、瀕死の状態で「エピファニー(顕現)」を得て、妻にそれまでの隠し事を告白。「自分に正直に生きること」を決意した彼は、一人フロリダへ移住。そこでラティーノの恋人ジミーを得て、セレブなゲイライフを満喫。だが、高級クラブに、フィットネス・ジムに、レストランに、恋人へのプレゼントにと、すべてにもの凄く金がかかる。
IQが169のとてつもない頭脳の持ち主のスティーヴンが思いついたのは、さまざまな詐欺行為だ。わざとスーパーの床にオイルを垂らし、転んで怪我して治療費をせしめたり、何枚ものクレジットカードを偽造してショッピングしたり、医療保険管理会社の財務担当者になって会社の金を横領したりして、詐欺師(コンマン)の才能を遺憾なく発揮する。だが、それも長くは続かない。
そうした詐欺師としての人生だけでも下手な小説なんかより面白いが、スティーヴンは、その後ぶち込まれたテキサスの刑務所でも大活躍だ。金髪で青い目をした若者フィリップ・モリスに一目惚れすると、あの手この手を使って、フィリップと同房に移送してもらったり、食堂では二人に特別食を出させたりして、つかの間の逢瀬を楽しむ。自分だけが別の棟に移送させられてしまうと、今度は釈放書類を偽造したり、一般市民や医者の服を手に入れたりして、何度も脱獄を試みる始末。結局、四度試みて、そのたび逮捕されてしまうが、最後は、文字通り生命をかけた大勝負に出る。
途中何度か、スティーヴンによる一人称のナレーションが入る。八〇年代に保守化したアメリカ社会の中で、警察官として模範的な社会人を演じた「偽装の人生」や、浮ついたセレブなゲイライフを実現するために発揮した詐欺師の才能、さらに抜群の頭脳を駆使した脱獄の数々を、スティーヴンは自省する。そしてすべての嘘や詐欺の中で、フィリップに対して自分が弁護士だと騙ったことだけは、許せなかった。
雲は自ら形を作るのではない。人間が、その形を読み取るのだ。子供の頃、スティーヴンは、友達と原っぱに寝っ転がり、空に浮かぶ雲に、友達には読み取れないウィニー(男の子の性器)の形を読み取る。そのとき、彼は他人とは違うクィアの「アイデンティティ」に目覚めたが、それを貫くことはできず、「偽装」を重ねる。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったのは、ボーヴォワールだが、「女らしさ」が社会的に作られた約束事にすぎないとすれば、「男らしさ」もまたある社会の文化的な刷り込みにすぎない。だが、私たちは自覚しないかぎり、そうした文化的な「産物」に縛られてしまう。スティーヴンの人生に、そのことが見え隠れしている。
マイノリティの立場からなされるブラックユーモアは、弱者を笑うだけでなく、笑う強者の「視線」を笑い返す。本作のクィア・ユーモアは、「変態」の脱獄囚スティーヴンの愚直な行為を笑うだけでなく、「変態」を作り出す保守的な社会こそを笑う。
『ブロークバック・マウンテン』や『ミルク』など、クィアを題材にした良質の映画は数多くあるが、九〇年代のテキサス州知事ブッシュをてんてこ舞いさせた「変態」の英雄的行為を描くこの映画は、過激なまでにコミカルなクィア映画だ。
(『すばる』2010年4月号に若干加筆しました)
ここから先は余談です。きょうか明日発売の『週刊新潮』の「名作を読む」(だったかな?)に、谷崎潤一郎の日記形式の官能小説『鍵』を取りあげました。昔、アメリカのポストモダン文学の授業で英語版(翻訳)で読んで、変態である京大教授の自意識過剰な記述がとても面白かったものですから。たったの600字ですので、暇なときに本屋さんで『週刊新潮』を立ち読みしてやってください。それと谷崎の本(文庫)も。
『フィリップ、きみを愛してる!』
監督・脚本/グレン・フィカーラ、ジョン・レクア 製作総指揮/リュック・ベッソン
越川芳明
冒頭のショットで、青空に白い雲が浮かぶ。そこに、ベッドに瀕死の状態で横になった男を真上から撮ったショットがつづく。風で移動する不定形の雲とベッドにしっかり拘束された男。この二つのショットは、「アイデンティティ」の揺らぎという、この映画のテーマを規定する象徴と見なすことができる。
形を変えて何にでもなれる雲の「自由」と、どんなにあがいても何にもなれない男の「不自由」の対比が見事だ。主人公のスティーヴン・ラッセルは、赤ん坊のときに養子に出された事実を養父母から聞かされたショックが癒えない。長じて警察官になり、その立場を利用して自分を見捨てた実母を探しあて詰め寄るが、彼女からは冷たく門前払いを食わされる。
スティーヴンには妻と娘がいて、日曜日には、妻と教会に行き、オルガン奏者として活躍している。しかし、それは「偽装の人生」で、彼にはもう一つの顔がある。妻に隠れて、男の恋人と密会を重ねているのだ。
映画の基調となるトーンは「喜劇」だ。スティーヴン役のジム・キャリーの抱腹絶倒の演技はもちろんだが、敬虔すぎて、ひとつ間違えるとキリスト教原理主義に陥りかねない妻を演じたレスリー・マンのとぼけた演技が、ゲイによる「アイデンティティ」の模索という、シリアスなテーマを笑いに変えてしまう。
妻は何ごとも「神の思し召し」と語り、セックスを終えたあとも、健康を気にして牛乳を飲んでいる。
この映画は、ヒューストンの新聞社に勤めるジャーナリスト、スティーヴ・マクヴィカーが取材執筆した同名のノンフィクションに基づいている。舞台は、ヴァージニア、テキサス、フロリダと、アメリカの保守主義を体現するような土地が選ばれている。スティーヴンが自らの「二重生活」から脱して、本来のクィアとしての人生を全うするまでの、それこそ波瀾万丈なエピソードが目白押しである。
スティーヴンは、実母に冷たくあしらわれた後、家族と共にテキサスへ移住。そこで、交通事故に遭い、瀕死の状態で「エピファニー(顕現)」を得て、妻にそれまでの隠し事を告白。「自分に正直に生きること」を決意した彼は、一人フロリダへ移住。そこでラティーノの恋人ジミーを得て、セレブなゲイライフを満喫。だが、高級クラブに、フィットネス・ジムに、レストランに、恋人へのプレゼントにと、すべてにもの凄く金がかかる。
IQが169のとてつもない頭脳の持ち主のスティーヴンが思いついたのは、さまざまな詐欺行為だ。わざとスーパーの床にオイルを垂らし、転んで怪我して治療費をせしめたり、何枚ものクレジットカードを偽造してショッピングしたり、医療保険管理会社の財務担当者になって会社の金を横領したりして、詐欺師(コンマン)の才能を遺憾なく発揮する。だが、それも長くは続かない。
そうした詐欺師としての人生だけでも下手な小説なんかより面白いが、スティーヴンは、その後ぶち込まれたテキサスの刑務所でも大活躍だ。金髪で青い目をした若者フィリップ・モリスに一目惚れすると、あの手この手を使って、フィリップと同房に移送してもらったり、食堂では二人に特別食を出させたりして、つかの間の逢瀬を楽しむ。自分だけが別の棟に移送させられてしまうと、今度は釈放書類を偽造したり、一般市民や医者の服を手に入れたりして、何度も脱獄を試みる始末。結局、四度試みて、そのたび逮捕されてしまうが、最後は、文字通り生命をかけた大勝負に出る。
途中何度か、スティーヴンによる一人称のナレーションが入る。八〇年代に保守化したアメリカ社会の中で、警察官として模範的な社会人を演じた「偽装の人生」や、浮ついたセレブなゲイライフを実現するために発揮した詐欺師の才能、さらに抜群の頭脳を駆使した脱獄の数々を、スティーヴンは自省する。そしてすべての嘘や詐欺の中で、フィリップに対して自分が弁護士だと騙ったことだけは、許せなかった。
雲は自ら形を作るのではない。人間が、その形を読み取るのだ。子供の頃、スティーヴンは、友達と原っぱに寝っ転がり、空に浮かぶ雲に、友達には読み取れないウィニー(男の子の性器)の形を読み取る。そのとき、彼は他人とは違うクィアの「アイデンティティ」に目覚めたが、それを貫くことはできず、「偽装」を重ねる。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったのは、ボーヴォワールだが、「女らしさ」が社会的に作られた約束事にすぎないとすれば、「男らしさ」もまたある社会の文化的な刷り込みにすぎない。だが、私たちは自覚しないかぎり、そうした文化的な「産物」に縛られてしまう。スティーヴンの人生に、そのことが見え隠れしている。
マイノリティの立場からなされるブラックユーモアは、弱者を笑うだけでなく、笑う強者の「視線」を笑い返す。本作のクィア・ユーモアは、「変態」の脱獄囚スティーヴンの愚直な行為を笑うだけでなく、「変態」を作り出す保守的な社会こそを笑う。
『ブロークバック・マウンテン』や『ミルク』など、クィアを題材にした良質の映画は数多くあるが、九〇年代のテキサス州知事ブッシュをてんてこ舞いさせた「変態」の英雄的行為を描くこの映画は、過激なまでにコミカルなクィア映画だ。
(『すばる』2010年4月号に若干加筆しました)
ここから先は余談です。きょうか明日発売の『週刊新潮』の「名作を読む」(だったかな?)に、谷崎潤一郎の日記形式の官能小説『鍵』を取りあげました。昔、アメリカのポストモダン文学の授業で英語版(翻訳)で読んで、変態である京大教授の自意識過剰な記述がとても面白かったものですから。たったの600字ですので、暇なときに本屋さんで『週刊新潮』を立ち読みしてやってください。それと谷崎の本(文庫)も。