越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

高橋源一郎『「悪」と戦う』

2010年07月05日 | 小説
「悪」って何だ?――追求される言葉の多義性 
 高橋源一郎『「悪」と戦う』
 
越川芳明

 「悪」と戦うのは、昔から「正義」に決まっている。西部劇だって、チャンバラ映画だって、お子様向けのアニメだって、「正義」が「悪」をやっつけるのだ。

  戦争好きだった前のアメリカ大統領だって、「アメリカにつくのか、それともテロリストにつくのか、いずれか決めよ」といって、自分は「正義」の顔をしていた。

 でも、「悪」って何だろう? ひょっとしたら、「正義」の人ために、「悪」が作られるのではないのか。

 「大人のための童話」ともいうべきこの作品の、タイトルが素晴らしい。高橋源一郎のセンスが出ている。

 「と」という語に、日本語独特の曖昧さが込められている。

 この「と」を英語に訳すとしたら、against the ‘Evil’ (「悪」と対決して)なのか、それとも with the ‘Evil’(「悪」と一緒に)なのか? 

 日本語の「と」は、まったく反対の意味を一度にしめすことができるのだ。
 
 それから、括弧つきの「悪」である。

 語り手「わたし」の上の息子、三歳児のランちゃんは、弟のキイちゃんや公園で一緒に遊ぶミアちゃんと一緒に、ある一線を越えて通常は行けそうにない領域に侵入し、そこで悪を括弧でくくらねばならなくなるような体験をする。

 夢か現か分からないある境界領域でランちゃんは中学生だったり高校生だったりするが、あるとき「殺し屋」をしている彼は、シロクマをはじめとして、いろいろな動物から、彼らを虐待してきた人類に対して「罰」を与えてほしいと依頼される。

 しかし、罪に見合うだけの罰を与えることはためらわれる。

 「ねえ、もしかしたら、「悪」の方が正しいじゃないかって、ちょっとだけぼくには思えたよ、マホさん。だったら、ぼくは、正しい「悪」をやっつけちゃったのかもしれない。じゃあ、ぼくの方が、ほんものの「悪」じゃん! 違うのかなあ、マホさん。」(270頁)
 
 ランちゃんはそこで、世界の奥行きを知る体験をして、本来いるべきところに帰還を果たす。

 世界の奥行きとは、語り手の「わたし」によれば、「この世の中には、わからないことがたくさんある――わたしにわかっているのは、それだけでした」(72)ということだ。
 
 政治の世界は、言葉で決めつける。それをプロパガンダという。

 文学の世界は言葉の多義性を追求する。それは、一見非政治的な行為に思えるかもしれないが、実は、「いずれかに決めよ」というプロパガンダの声に対峙する、きわめて「革命的な」行為なのだ。
(『すばる』2010年8月号、318頁)