ボウルズの部屋
越川芳明
アメリカ文学の作品をいろいろと翻訳してきた。
翻訳に取りかかるさいに、なるべく原作者に会って、生の声を聞くことを心がけてきた。
旅費もかかるので放蕩息子の道楽みたいなものだが、作家や詩人と友達になるという役得がある。
とりわけ九〇年代初めに、モロッコのタンジールに住んでいた今は亡きアメリカ人作家ポール・ボウルズの部屋に通ったことが忘れられない。
毎日、夕方になると、彼の部屋まで歩いていき、日課であるフェズ市場での買い物につき合った。
それから、世界中から訪ねてくる作家やジャーナリスト、彼の若い友人ための「芸術サロン」と化した居間で雑談に加わった。
あとで振り返ると、それが私の文筆家修行の事始めだったような気がする。
ボウルズは、漁師町育ちの私とは大違いで、ダンディで物静かな人だった。
なかなか本心を語らない人でもあったが、ある時、私にポロッと愚痴をこぼした。
朝、突然ひとりの運転手がやってきて、外でオランダ人の女性が待っていると言う。
何が目的なのかと訊くと、ただ彼に会いたいだけだと言う。
「どうもタンジールに行ったら、ヘラクレスの洞窟とボウルズは見に行けって言われているらしい」
そう言いながら、ボウルズは苦笑いした。 (『日経新聞』のコラム「交遊抄」2012年7月20日朝刊)