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書評 田中慎弥『燃える家』

2013年12月16日 | 書評

「源平合戦」は、いまも続いている  田中慎弥『燃える家』

越川芳明

 

「源平合戦」は、いまも続いている。だが、もちろん形と名前を変えて。それが、本書の隠されたテーマだ。

 思えば、これまでの田中慎弥の小説も、壇ノ浦の近くの赤間関を舞台に、障害者や在日など周縁に置かれた者の視座から「勝ち組」の価値観を問うものであった。言い換えれば、負け組の「平家」に与するものだった。

 確かに、これは歴史小説ではない。扱われているのは、九〇年代初めからゼロ年代という近過去であり、れっきとした現代小説である。世界的には、父ブッシュ大統領のもとでの湾岸戦争で始まり、子ブッシュ政権時のニューヨークでの同時テロ事件へと到る、アメリカ主導の「世界秩序」の時代。日本国内では、平成の時代になり海部政権下の自衛隊のペルシャ湾派遣から、第一次小泉内閣のあたりまで、アメリカに与する形でナショナリズムの高まりが見られた時代。

 だが、小説の中ではしばしば、八百年以上前に壇ノ浦に入水崩御した安徳天皇への言及がなされ、しかも、後半では、安徳天皇を祀った赤間神宮が舞台となる。赤間神宮では、毎年、亡くなった天皇や平家一門の武士たちの回向(ルビ:えこう)のために先帝祭が催されるが、小説はその祭を大胆に脚色している。

 視点人物が、三人登場する。滝本徹という高校生と、山根忍という、徹の通う高校の女教師、それと徹の父親ちがいの弟、光日古である。

 徹は、学校でも目立たぬ生徒で、同級生からまったく関心を持たれていない。唯一、友達と言えるのが、皮膚が「何度も蝋(旧字)に潜らせて仕上げた人形」(11)のように艶のある相沢良男である。この「蝋(旧字)人形」のような相沢は、風変わりなことを言って、同級生たちにうす気味悪がられるが、人生の意味を模索する思春期の徹は、極端な思想の持ち主である相沢に感化される。

 相沢は、小学二年のときに真っ白な鳩の死骸を葬った小さな墓を作ったり、高校生になってからも、自分の祖母「白粉ババア」を海の中に突き落としたりするが、ついには、この世の「無意味」を追求するために、徹や同級生の女子二人を巻き込んで、女教師山根のレイプを計画するほど過激になる。

 この世界の意味は、いったい誰が決めるのか。

 『平家物語』に窺われる世界観は、言うまでもなく「諸行無常」だ。この世の一切は、絶えず生じて滅び、変化する。永遠不変のものはない。人間や動物だけでなく、政体や制度もまた滅びや変化を免れない。

 それに対して、仏教には「常住不滅」という考え方があるようだ。生滅変化することなく、未来永劫に存在すること。それは、この小説の表現を借りれば、『ジャックと豆の木』の巨人に象徴される絶対的な「力」である。そうした「力」に対峙するのは、山根忍や徹だ。

 山根は、小学生のとき、昼食の時間に十字を切る同級生の男の子に引かれて、キリスト教に興味を抱く。実家の近くのサビエル記念聖堂で入信するが、その信仰はあやふやだ。彼女にとって、絶対的な「力」は、なぜか髭の男を連想させる。イエス、ビンラディン。しかし、彼女自身がレイプ事件に巻き込まれたとき、「神」はなぜ黙って見ているのか、と不信を抱く。

 一方、徹にとって、絶対的な「力」とは、中央政界で活躍する実父、倉田正司の存在であり、その「血」である。倉田の考えは勝ち組のそれに他ならず、中央集権主義だ。倉田によれば、日本は「天皇を中心とする神の国」であり、軍隊を否定する憲法を改正して、偽ものの国から本物の国へと変化を遂げねばならないという。「国民は権力者によって飼育されるだけ」だから、お前は赤間関などにくすぶっていないで、天皇のいる首都にきて、権力者の側に立たねばならない。そう倉田は徹を諭す。

 徹は自分の中の「血脈」を自覚したときから自らの内なる「力」を知ることとなり、倉田を倒す方向に進む。それは、単なる青年期における父親殺しの儀式ではない。日本の政争史における、「権力者(天皇)」打倒という、メタレベルの儀式が重ね合わされていることを忘れてはならない。それが小説のクライマックスでの、徹と倉田の一騎打ちの意味だ。

 さて、この小説には、水と火というモチーフが見られ、それが赤色のモチーフと絡まって、徹や山根を主人公とする、この現代版「源平合戦」を彩る。まず水のモチーフは、海峡の廃船や蟹の大量発生という変奏となり、赤い色を伴って「平家」側の逆襲に加担する。「赤間関の海は名前の通り赤い、と徹には思えるのだった」(8)

 一方、火のモチーフは、本書のタイトル『燃える家』に示唆されるように、サビエル記念聖堂の火事、先帝祭のときの稲妻、という変奏をかなで、赤間神宮の水天門の赤色を伴い、山根や守園、白粉ババアなど、女性たちの「力」の源泉となり、「権力者」の滅亡を象徴する。「世界は娼婦の着物になった」と、徹は言う。つまり、大夫役の守園の(金の縫取りに飾られた)赤い着物が、世界を描いているように見えるのだ。「糸の描く世界は、空では星座のようで、地面に近いところでは戦争のようだった。糸は金色にふさわしく、城や王冠や、またそれらを滅ぼす炎を描き出した」(561)と。

 最後に、徹の父ちがいの弟、光日古に触れておこう。『平家物語』によれば、安徳天皇が天子の位を受け継いだ「受禅」の日に、様々な「怪異」があり、その一つに、夜の御殿の仕切りの内側に、山鳩が入り籠ったという。また、平清盛の妻、二位の尼平時子は、安徳天皇の祖母にあたるが、現世における平家の滅亡を自覚して、「山鳩色の御衣」をまとった八歳の孫を抱き、壇ノ浦に飛び込む。飛び込む際に「浪のしたにも都のさぶらふぞ(波の下にも都はございます)」と、「もう一つの現実世界」を不気味に示唆する言葉を吐いて、幼い天皇を慰めたという。

 父と対決すべく、先帝祭の舞台に登った徹は、ある幻を見る。「空中をついてきていたババアたちの一団は水天門の上に腰をかけ、鳩に乗った天皇は、馬の首に似た金色の飾りに止まって、自らの追悼のために集まった人間たちを見下ろしている」と。(546)。相沢の祖母、白粉ババアは、平時子の再来ともいうべき存在であり、小学二年生の光日古も入水する安徳天皇と同じ八歳だ。やがて、徹の眼には、「鳩に乗った光日古」(558)が見えてくる。

 かくして、徹は「負け組」の死者たちを味方につけながら、体制をコントロールする「権力者」に挑戦する。たとえ、この徹が敗れても、次の徹が登場するだろう。それが、現代の「源平合戦」の意味だ。 (初出『文學界』2014年1月号、288−289ページ)