越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

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書評 ポール・オースター『冬の日誌』

2017年04月06日 | 書評

 

「肉体」たちの記憶を語る   ポール・オースター『冬の日誌』

 越川芳明    

 著者は冒頭で本書を要約する、こんな言葉を発している。

「この肉体の中で生きるのがどんな感じだったか、吟味してみるのも悪くないんじゃないか。五感から得たデータのカタログ」と。  

 そう、「カタログ」と称するからには、退屈であろうとなかろうと、何から何まで一応網羅しなければならない。例えば、三歳半のとき、デパートで遊んでいて、左頰に長い釘が突き刺さって顔半分が引き裂かれたエピソードから始まり、初老の男の肉体が記憶しているこれまでの怪我や傷の数々。  

 「君」という二人称で、読者に語りかける記述方法に特徴がある。なぜ自分自身の過去について語るのに「私」でなく、「君」を主語にするのか。  

 もちろん、それは自分自身の過去の出来事を突き放して見つめるための創作上の工夫に違いない。だが本書のテーマ(身体の記憶カタログ)とも密接に関わっているはずだ。  

 著者が引き合いに出すイギリス作家ジェイムズ・ジョイスの逸話にヒントがあるかもしれない。ジョイスはパーティの席上で、ある貴婦人から、あの傑作の『ユリシーズ』を書いた手と握手させてくださいと言われ、「マダム、忘れてはいけません。この手は他にもたくさんのことをやってきたのです」と、答えたという。  

 私たちがこのエピソードから類推できるのは、本書の「君」が、たんに著者の過去の分身というより、むしろ、現在の著者とは別の生き物としての「肉体」たち、過去の様々な瞬間にいろんな反応を見せた「肉体」たちではないだろうか。  

 たんに執筆に取り組むだけでなく、自我意識に目覚めた三、四歳の頃から、性の虜になる思春期を経て、母の心臓発作による死や、著者の判断ミスによる交通事故で妻や娘を殺しかけた五〇代、そして老いを意識しだした六〇代まで、実に数々な事件や出来事に遭遇した無数の「肉体」たちの物語。

 それを掌編小説みたいに巧みに語ったものが本書である。 (「デーリー東北」2017年3月26日朝刊ほか)

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