「死者の世界」を覗き込む 柴崎友香『かわうそ堀怪談見習い』
越川芳明
エドガー・アラン・ポーの「黒猫」や「告げ口心臓」などがいい例だが、怪奇小説やゴシック小説の中には、霊感の強い、「信頼できない語り手」が登場するものがある。真実なのか、それともただの語り手の妄想なのかはっきり判別できない物語を提示することによって、作者は語り手の不安や恐怖を読者にも共通体験させようとするのだ。
だが、「怪談(見習い)」を冠した本作の場合、語り手の「わたし」(谷崎友希=小説家)は、信頼できそうな語り手だ。「感情が乱高下するようなことは、日常生活でも、小説の書き方でも得意ではない」とか、恋愛も怪談も向いていない、と告白する。
そういうわけで、語り手(=作者)は入れ子構造(伝聞形式)の語りを採用することになる。賢明にも、自分より霊感の強い人たちの言葉を「引用」するのだ。
とはいえ、「わたし」自身も、通常「超常現象」と言われる事象に対して鋭い感性がないわけではない。中二の時に、友達と一緒に侵入した謎のマンションで目に見えない存在に気づいてから、「それまで暮らしていた世界と、別の世界との隙間みたいなところに」生きるようになったからだ。
「隙間みたいなところ」とは、わたしたち生者が死者と出会うトポスに他ならない。「わたし」は現世を死者の視線で見ることができるので、「超常現象」に対しても、不安や恐怖を感じることなく、平静でいられるのだ。
かくして、「隙間みたいなところ」ばかりが出てくるが、それは幽霊屋敷のようなおどろおどろしい場所ではなく、街の古本屋だったり公園だったり、漁村の古い家だったり都会の真ん中の奥まった路地だったり、ワケあり物件のアパートだったりビジネスホテルだったり、大阪環状線の電車の中だったり・・・。要するに、わたしたちにとって、身近な生活空間の中の「ちょっと違った世界」なのだ。
それぞれが短い、数多くの物語の中で、「桜と宴」と題された作品は秀逸。「わたし」は、友人のたまみに誘われて商店街の桜見に出かけていく。そこで、ある会社員の若い女性に紹介され、彼女の「幽霊話」を聞く。彼女は中二の頃にいじめに遭い、安らぐ場所がないまま、環状線の電車に乗って過ごす。すると、自分と同じように電車から降りない人たちの存在に気づく。あるとき目をつけた上品な婦人を家まで追いかけ、そこで彼女は自分自身に死者の姿を見抜く能力があることを発見する。
注目すべきは、その話を聞きながら、「わたし」が彼女の眼球にある「穴」を見つけることだ。その「穴」こそ、「どこか遠いところへつながっている暗闇」に通じる入口であり、「死者の世界」の換喩に他ならない。ポーとは違った語り口で、わたしたちのすぐ身近にある「死者の世界」を描いた洗練された「ゴシック小説」だ。
(初出『文學界』2017年5月号)