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書評 リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』

2013年09月24日 | 書評

遺伝子のベンチャー

リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』

越川芳明

 

 つい先頃、米連邦最高裁判所は、さるベンチャー企業が保有する乳がんや卵巣がんのリスクを高める遺伝子の特許を無効とする判決を下した。だが、合成DNAの特許まで否認されたわけではなく、遺伝子診断ビジネスは留まるところを知らない。

 『幸福の遺伝子』は、そんな最先端の生命工学とベンチャービジネスの絡んだ、実に現代的なトピックを扱う長編小説だ。

 あたかも生まれつき特別な「幸福の遺伝子」を持っているのではないか、と思わせるタッサという二十代の女性が登場する。いつも幸せそうにしているだけでなく、彼女はまわりの人々にも陽気な気分を「伝染」させる。だが、アルジェリア生まれの彼女の人生は激烈そのもので、内戦で父親は暗殺され、母や弟とパリに亡命。母は病死し、弟と一緒にカナダに逃げ、いまはシカゴにある芸術大学で学ぶ。

 彼女は、あるときデートレイプ事件に巻き込まれる。彼女に関して、関係者の一人がうっかり警察に使った心理学用語がマスコミにリークされ、一躍「時の人」に。さらにネット上のブログや人気のテレビ番組によって、「幸福の遺伝子」を持つ特別な人という「虚像」が膨らみ一人歩きする。やがて彼女の遺伝子を検査したいとか、卵子を買いたいというベンチャー企業が現われる。とりわけ、トマス・カートンというゲノム学者をめぐる物語が、現代のファウスト博士の姿を浮び上がらせる。

 ところで、主人公は芸大生タッサの出席する創作の授業で、ノンフィクションの「日記」の書き方を教えるラッセルという二流の作家だ。だが、フィクションとノンフィクションは、ラッセルの教えるように、はっきりと分けられるわけではない。

 時折顔を出す語り手の「私」はこの小説時代が虚構(作り話)であることを訴えるが、そのような虚構性は、小説の専売特許というわけでない。ネットやテレビ番組を初め、いたるところに紛れ込んでいる。そんなことを示唆する優れた現代小説だ。

(『北海道新聞』2013年6月30日朝刊)


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