政治的に熱い時代の渦中にあって、醒めた目でキューバ革命を映しだす一人称「僕」の語りに注目すべきだろう。
とはいえ、「僕」は、作家のデスノエス自身ではない。
作中に、エディ(あるいはエドムンド・デスノエス)という作家への言及が出てくる。自己相対化の手法だ。
「エディの小説を読み終えた。あまりの単純さに、開いた口がふさがらなかった。精神分析や強制収容所や原爆が出現したあとでこんな小説を書くなんて、実に哀れだ」
「僕」は、そうエドムンド・デスノエスの作品をけなす。
そうして、この「日記」のなかで、「僕」は異文化接触をテーマにした自分自身の作品にたいして言及する。
それらの小品は、この「日記」のあとに添えられている。
作者は、そんな風に実に手のこんだ自己言及的な物語構造、「著者」の死を意識したポストモダンなメタフィクションの語りの構造を選びとっている。
では、なぜそうした構造を選びとったのか?
それが意味するところは、一言でいえば、「権威」の否定だ。
(つづく)
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