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書評 村上龍『心はあなたのもとに』

2011年06月15日 | 書評
「愛人小説」を装った「情報小説」
村上龍『心はあなたのもとに』 
越川芳明

 五十代のビジネス・エリート、西崎健児が語り手だ。

 かつてチューリッヒに本社を持つ金融機関で二十四年働き、後に日本で優良な中小企業から資金を集める小さな投資組合を作り、そのファンドの投資で成功してきた。

 彼は1型糖尿病という難病を患う二十歳近く年下の四条香奈子、その他の愛人を持つ。 

 西崎は、進取の精神に富み、保守的な日本社会で「成功」を収めた「勝ち組」である。

 彼の金融哲学のキーワードは、「信頼」だ。

 ビジネスの成功は、長い困難な交渉の果てに獲得される「信頼」があればこそだという。

 同時に、女たちとの関係も信頼と信用をめぐる危ういバランスの上で成り立つ。

 いわく、「女たちとの関係は金融市場に似ている」(128)。
 
 しかし、女たちに対しては、ときどき自分が信頼されていないのではないかと悩む。

 愛人たちが重要な局面で自分に相談せずに勝手な行動を起こしているように感じるからだ。

 常に物事の優先順位に留意し、「用心深い性格だけが取り柄」と自覚する西崎だが、女性関係においては「情報」から疎外されている。

 金銭や家族に恵まれ、しかも複数の愛人までいるにもかかわらず、西崎はみずからを「哀れな五十男だ」と称してはばからない。
 
 村上龍の『歌うクジラ』の主人公(こちらは少年だ)は、生きる上で意味を持つのは他人との出会いだけであり、移動しなければ出会いはない、と述べる。
 
 一方、本作の中年の主人公は、たとえばアムステルダム、ロンドンなど、ビジネスで世界を股にかけていながら、ホテルの周囲から出たことがないと言う。

 だから、自分を本質的に変えるような出会いはない。

 唯一、真の他人(階級や性において)といえるのが香奈子なのだ。
 
 しかし、香奈子の死に際して、二人にゆかりの都会の小さな公園に、その背もたれの裏側に英語で

 You will be with me, always. (心はあなたのもとに)と刻んだプレートをとり付けた白木のベンチを寄贈する。

 「おそらく誰もプレートには気づかない。だが、わたしにとっては、香奈子が生きたことの、ただ一つの証だ」(554)と述べるだけだ。

 そうした行為や言葉は、西崎が他人との出会いによって変わったというにしてはあまりに自己満足的に映る。

  香奈子から西崎への携帯メールが本文に数多く引用されている。

 現代人には不可欠なコミュニケーション・ツールであるはずの携帯メールだが、彼女からのメールは西崎に喜びを与えるだけでなく、不安や苦痛を与えたりする。
 
 本作は「愛人小説」を装っているが、一方で、将来のデジタル書籍化を多分に意識した「情報小説」でもある。

 主人公が複数の愛人たちと飲食する高級料理やワインの名前が頻出する。

 また先端の医療ビジネスに関する情報もふんだんに盛り込まれている。

 この作品が電子媒体で読まれるようになれば、それらの固有名詞や専門用語からさまざまなリンク先へと飛んでいって、読者は知識を一層拡大させることができる。

 この小説の付加価値なのかもしれない。(『すばる』2011年6月号、316頁)
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