越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

入学式祝辞

2017年04月18日 | ババラウォ日記

 

二〇一七年度明治大学付属中野中学校・高等学校入学式 

祝辞

明治大学学長の土屋恵一郎に代わりまして、祝辞を述べさせていただきます。

新入生の皆さん、ご入学おめでとう。

本校は明治大学の付属校であり、「質実剛毅」「協同自治」を校訓とする学び舎です。学園の合言葉として掲げられている教育方針は、「みんなで、仲良く、正直に、真面目に、精一杯努力しよう」という標語です。

この「みんなで、仲良く、正直に、真面目に、精一杯努力しよう」という標語は、平易な表現でありながら、実は深い意味が宿っている気がします。「みんなで 仲良く」という一語をとってみても、イギリスのEUからの離脱、ヨーロッパにおける極右政党の台頭、米国では「アメリカファースト」を掲げるトランプ大統領の登場など、世界は自国優先主義、自民族優先主義に走ろうとしています。そういう意味で、「他者」を思いやる心を大事にする、この「みんなで 仲良く」というのは、いまこそ、とても価値ある言葉だと思います。

さて、私は十年ほど前に、アメリカとメキシコの国境地帯を放浪しておりました。一九九四年に北米のカナダ、米国、メキシコの三カ国で結ばれた「北米自由貿易協定(NAFTA)」が、国家や企業ではなく、当地の貧困地区やスラムに暮らす低所得者の家族や難民たちに何をもたらしたのかをこの目で見たかったからです。マフィアの暗躍、ドラッグトラフィキングという麻薬の輸送、貧しい家庭の女性への暴力や大量殺人事件、政治家や企業人や警察の腐敗、多国籍企業による労働搾取など、この世界の吹き溜まりのような場所でした。しかし、これは日本とは縁のない、遠い世界の出来事のようでありながら、実はグローバル経済の仕組み中で、日本にも直接的に関係している世界なのです。そこに工場を持つ日本のメーカーのみならず、私たち、日本に暮らす消費者もそうした工場で作られた安い製品や商品を買うという行為によって、知らないうちに世界経済システムの「強者」になっている可能性があるのです。まるで野生のジャングルのように、強い者が容赦なく弱い者を食い殺すような、そんな野蛮な世界だからこそ、本校の教育方針である「みんなで、仲良く」は意味を持ってくると思います。

皆さんは、将来、日本社会のリーダーとして活躍される人材です。実際にリーダーになられた暁には、本校の精神的なモットーである「みんなで、仲良く、正直に、真面目に、精一杯努力しよう」を思い出していただき、世界の中で「弱者」の立場に立って物事を考えてくれる人になってほしいと思います。

 このような素晴らしい校訓を掲げた学び舎が、皆さんの将来の「母校」となるわけです。いま私は「母校」という言葉を使いましたが、なぜ「出身校」を表す学び舎が「母」であって、「父」でないのでしょうか? 

西洋でも、「母校」という言い方はあります。英語圏では「アルマ・メイタ―alma mater」といいます。その語源は、ラテン語の「アルマ・マーター」だそうです、アルマというのは「栄養を与える/養う」という意味で、マーターは、「母」という意味です。親しみをこめて言えば、マーターとは、「おふくろ」であり「おっかさん」です。

 ですから、「アルマ・マーター」を私なりに日本語に意訳してみると、「青少年時代の私たちを育てる母(おふくろ、おっかさん)」です。いま、会場には皆さんをこれまで育ててくださった本物の「お母さん」が大勢いらっしゃっていますが、これからは、明大中野中学校と高校がみなさんのもう一人の「母(おふくろ、おっかさん)」になります。

「アルマ・マーター」とは、人間の精神形成に大きな影響を及ぼす出身校のことです。あるいは、建学の精神を歌詞に落とし込んだ「校歌」も意味するようです。ですから、皆さん、校歌を覚え、大きな声で歌いましょう。いまはわかりませんが、将来、皆さんが大人になったときに、明大中野が「母校」でよかったと、皆さんの精神的な土台を築いてくれたこのもう一つの「母(おふくろ、おっかさん)」に感謝することになるでしょう。

ですが、言うまでもなく「母校」とは、卒業して初めて使えることばです。卒業するまでは、きょうから一日一日を大切にして過ごしてください。私はあるとき、都内の真言宗豊山派のある寺院を訪れたのですが、その正面の壁にこういう箴言(格言)が掲げられていました。「一日を粗末に過ごす。毎日毎日を粗末に過ごす。一生を粗末に過ごすことに通じる」。そう書いてあったのです。

中学生の皆さんはご存知ないかもしれませんが、「カルぺ・ディエム」というラテン語の箴言があります。紀元前一世紀ごろ、古代ローマの詩人ホラティウスの言葉です。「カルぺ・ディエム」とは、平たく言えば、「いまを生きろ」です。

テレビでおなじみの、予備校講師の林修(はやし・おさむ)さんが以前、「いつやるの?いまでしょ」という言葉を流行らせましたね。「いつやるの? いまでしょ」という流行語は、彼のオリジナルではありません。その語の由来は、古代ローマのホラティウスの「カルぺ・ディエム」です。頭のいい林さんは、それを現代ふうの日本語にうまく言い換えたのです。

「一日を粗末に過ごすな」といい、「カルペ・ディエム」といい、「いまでしょ」といい、これらは皆、同じことを言っています。スポーツでも勉強でも大きな目標を立てて、その目標の日から逆算して、じゃあ、今日何をやらなきゃいけないかを自分で考え、実行することにしましょう。そうすれば、「一日を充実して過ごすことができます」。そういう趣旨の標語です。

私たちの生命は有限です。いつか死にます。魂は永遠かもしれませんが、肉体の死の訪れは、確実にやってきます。六十年後か八十年後かもしれませんが、ひょっとしたら明日かもしれません。自分自身の「死」を自覚したとき、「カルぺ・ディエム」という言葉は意味を持ってきます。皆さんも私も墓場に行くまでは、「いまを生きる」を実行することにいたしましょう。

と同時に、ときには墓場に眠る死者たちにも思いを寄せることをお勧めます。皆さんは突然変異でこの世に生まれたのではなく、お父さんお母さんの、さらにお父さんお母さん、さらに、辿れないかもしれませんが、ご先祖のDNA(遺伝子)のリレーでこの世に生きているわけで、そういう意味では、死者は私たちの中に生きている、私たちは死者と共に生きていると言えます。死者に思いを寄せることで、自分の生の意味を再確認することができます。

私の友人で作家の高橋源一郎がすこし前に新聞で、こう言っていました。「健全な社会とは、過去を忘れず、弱者や死者の息吹を感じながら、慎(つつ)ましく、未来へ進んでゆくものではないのはないのか」と。私は高橋さんの「弱者や死者の息吹を感じながら」という点に、深く共感を覚えます。本校の標語で、皆さんが「みんな 仲良く」と述べるときに、「弱者」や「死者」を含めてくださるとうれしく思います。

結びにあたりまして、明治大学付属中野中学校・高等学校の益々のご発展と、中学校二百四十九名、高等学校四百十三名の新入生の皆さんが、この明治大学付属中野中学校・高等学校の生徒としての誇りを胸に、大いに活躍されることを祈念いたしまして、私からのお祝いの言葉とさせていただきます。

本日は、新入生の皆さん、本当におめでとうございます。

 平成二十九年四月五日 明治大学副学長 越川芳明


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