越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

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映画評 ゲイブ・クリンガー監督『ポルト』 

2017年10月05日 | 映画

 

幸福の記憶を残す方法

ゲイブ・クリンガー監督『ポルト』 

越川芳明

 

 見知らぬ外国人同士の男女が何かの因縁で、異国で出会い霊感を受けて一夜を共にする。生涯忘れないほどの一体感を味わった二人なのに、そうした関係は長く続かない。しかし、人生の中でたった一瞬であれ、幸福を味わった記憶は消えない。この映画は、人間の脳裏に残るそうした一瞬の儚い記憶をスクリーン上に残そうとする。

 映画の話法としては、最小の表現で最大の効果を狙う「ミニマリズム」の話法を採用している。多くの物語を語らずに、むしろ観客たちの想像力に訴えるのだ。そのために、二人の脳裏に強烈な印象を残した、幾つかのシーンを繰り返す。

 たとえば、冒頭と結末で繰り返される、男女が見つめ合うシーン。二人はベッドの上で横向きになり、互いを見つめ合う。男は裸だが、女は服を着ている。朝方、女だけが起きて朝食の買いにいってきて、再びベッドに横になる至福に満ちた一瞬である。冒頭ではわずかに数秒のシーンだが、幕切れでは延々と一分以上も続く。二人とも何もしゃべらずに無言である。二人がその時何を思っているのか、二人の間の会話を成立させるのは観客の想像力である。

 もう一つは、深夜のレストラン。二人は濃密な愛の時間を過ごした後、外出して食事をとる。ここで初めて互いに関する情報交換がなされる。男(ジェイク)は二十六歳のアメリカ人。父親が外交官でリスボンに赴任した時、高校生で一緒にポルトガルにやってきたという。父親が再度よそに転任することになった時、姉と共にこの地に残る決心をした。手に入る仕事は何でもするが、仕事自体は好きではないという。その時、鉄道の駅やラッシュアワーや時計の映像が流れるが、彼はそうした生産性や効率を求める近代産業の片棒を担う気はないようだ。

 女(マティ)は三十二歳のフランス人の学生。ソルボンヌ大で考古学や古典を学んでいたが、パリにやってきていたポルトガル人の教授と恋仲になった。教授は離婚して、彼女と一緒になりたいと言ったが、自由が欲しいので断ったという。なぜ長年、学生生活を送っているかというと、心の病気で入院していたからだ。今も治っているわけではない。彼女は教授を追ってこの地にやってきたらしい。

 この地というのは、ポルトガルの第二の都市ポルト。本作のタイトルにもなっている港湾都市だ。建設は五世紀以前とも言われ、ケルト文化の残滓もあり、外に開かれた多文化都市でもある。旧市街は「歴史地区」として、一九九六年に世界遺産に登録されている。本作にもドウロ川に架かる高架鉄橋や鉄道のサン・ベント駅など、「歴史地区」の映像が出てくるが、単なる舞台とは違い、深い象徴性を帯びているように思える。

 たとえば、ポルトの湾岸を飛ぶカモメの大群が幾度か、その独特の鳴き声とともに映し出される。とりわけ、美しいのは、二人が一緒に過ごした明け方の、青を基調とした大空にカモメが群れなすシーンだ。

 いうまでもなく、カモメは雑食性であり、植物の種から蟹やタコや小魚、さらに人間の捨てたゴミまで食すほどにたくましい。その上、集団繁殖地(ルビ:コロニー)で子作りをする彼らは、つがいの忠誠度(ルビ:メイト・フィデリティ)が非常に高いという。人間でいえば、滅多なことでは浮気をしないらしい。

 カモメの大群は、時間の経過とともに変化しないモノである。かたや、恋慕の情は移ろいやすい。移ろわないのは、恋の記憶だけだ。この映画が捉えようとしたのは、そうした変化しないモノの美しさなのかもしれない。

 逆にいえば、私たちの世界では、変化して失われるモノばかりである。女主人公マティは、ある本で読んだ言葉を引用しながら、忘却のパラドックスを説く。「人はあらゆることを忘れるが、忘れられた事柄は失われない」と。

 サウンドトラックがまた素晴らしい。映画のための背景というより、それ自体が独自の存在感を放っている。二人の対照的な黒人演奏家の曲が使われていて、欧米の白人を主人公とするこの映画に、グローバルな視野とスピリチュアルな異文化の要素が付与される。

 一つはジョン・リー・フッカーの野太い声で、軽快かつソウルフルに歌われる、六〇年代のブルース曲「シェク・イット・ベイビー」。ちなみに、ジョン・リー・フッカーはアメリカ南部出身の黒人ギターリスト・歌手(1917-2001)だ。ローリング・ストーンズやドアーズをはじめ、数多くのロックバンドとセッションを組んだこともある大物アーティストだが、単に「レジェンド」で終わることなく生涯、現役を通した。映画の中では、見知らぬ男女が「セウタ」という旧市街のカフェレストランで出会う、ときめきの一瞬に流れる。「ワン・タイム・フォー・ミー(一度だけ、僕のために)」や「ミー・アンド・ユー、ノーバディ・バット・ユー(僕ときみ、きみだけ)」のリフレインがとても印象的だ。

 一方、それとは対照的に流れるのが、エマホイ・ツゲェ・マリアム・ゲブルーのピアノ曲、「ホームレス・ウォンダラー」と「プレゼンチメント(虫の知らせ)」だ。エマホイは、西洋音楽の影響受けたエチオピア出身の作曲家、ピアニスト。ここでは六〇年代のアルバムから二曲採用されている。エリック・サティにも似て、静謐なメロディの中にも不思議な躍動感が感じられるユニークな曲想で、一度聞いたら忘れられなくなる。観客が、電撃的な恋を経験しそれを失う男女の心象風景を想像するのに一役買っている。

 旅先での外国人同士の行きずりの恋といえば、リチャード・リンクレーター監督の『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』が彷彿させられるが、本作はそれをも凌ぐ興味深いインディーズ作品だ。

(『すばる』2017年10月号)

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