スラム街に花咲く、もうひとつの「愛」
ジン・オング監督『ブラザー 富都(ブドゥ)のふたり』
越川芳明
舞台はマレーシアの首都クアラルンプールの富都(プドゥ)地区にあるスラム街。
そこには地元の買い物客で活気づく生鮮市場があり、住民たちは家賃の安い、衛生環境もよくない集合住宅に住む。
かれらは、多国籍の移民労働者だったり、不法滞在者やその二世だったり、マレーシア人でありながら身分証明書の
ない者だったり、障がい者やトランスジェンダーの人だったり……。
ミャンマーなど政情不安な国からやってきた難民もいる。要するに、みな社会的に疎外された貧困者たちだ。
主人公は、バハサ・マレー語で「兄」を意味するアバンと、「弟」を意味するアディだ。
「兄」アバンは幼いときに両親を亡くし、マレーシア人でありながら、出生証明書も身分証明書もない。
法的には「無国籍者」である。おまけに耳が不自由というハンデも抱えている。コミュニケーション手段は手話だ。
深夜に当局による抜き打ち捜査があると、連行されないように、集合住宅から必死に逃走しなければならない。
とはいえ、かれは悪事を働くどころか、性格は真面目そのものだ。生鮮市場で低賃金の運び屋として地道に汗をかく。
一方、「弟」アディは「兄」と性格がまったく異なり、生来のやんちゃ者だ。
違法滞在者たちに偽造身分証明書の作成を斡旋したり、金がほしいときは男娼になったりと、いわば裏社会に生きている。
肌身離さず出生証明書を携帯し、いざというときには、それを当局に見せてかろうじて逮捕を免れている有様だ。
この「兄弟」のように、マレーシアには両親が合法的な結婚をしていないとか、その他の理由で「身分証明書」を持っていない(あるいは、持てない)人が、一説によると、約三十万人もいるという。
身分証明書がどれほど重要かといえば、これがないと、銀行口座もひらけないし、パスポートも取れない、病院にもいけず、携帯電話も買えない。
つまり、この国でまともな日常生活を送ることができない。
こんな絶望的な状況のなかでも、救いの手を差し伸べてくれる人がいる。
同じ集合住宅にすむトランスジェンダーのマニーだ。
携帯電話を手にいれたり、ふたりを部屋に呼んで手料理をご馳走したりと、親代わりの存在だ。
とはいえ、マニー自身もイスラム社会のなかで「異常者」として白い目で見られ、まともな職にはつけていない。
実は、アバンとアディは血がつながっているわけではない。
だが、ふたりは同じ部屋で暮らし、ひとつのベッドで一緒に寝ている。
ふたりの間には、ホモセクシャルな親密さが漂う。
「兄」は何があっても、身を挺して「弟」を守り、やんちゃな「弟」も、堅実な「兄」を頼りについていく。
ふたつのシーンが注目に値する。
ひとつは、ゆで卵割りのシーンだ。
貧乏なふたりはガスコンロで生卵をゆでて食べる。
わびしい夕食だが、テーブルを挟んでかれらは互いに相手の額に卵をコツンコツンと当てて卵の殻を割る。
毎夕ふたりがゆで卵の殻を互いの額で割るのは、「兄弟」としての絆を深めるためにおこなう、一種の儀式である。
この世界には「帆」で「船」を表したり、「鳥居」で「神社」を表したりする間接表現がある。
だから、ひょっとしたら、ふたりの男性がゆで卵を互いに相手の額で割るこのシーンは、かれらの性交を表す「換喩」かもしれない。
イスラム社会で違法行為の同性愛を、間接的に映画表現してみせたものなのだ。
この象徴的な儀式が、映画の終盤に大きな物語的効果を発揮し、観客を感動させることになるが、詳しくは立ち入らない。
もうひとつは、マニーの部屋でひらかれた誕生パーティでのチークダンスのシーンである。
「兄」と「弟」は、ほかのゲイたちと同様、音楽に合わせてチークダンスを踊る。
そのとき、「弟」がためらいがちな「兄」の両手を引っぱり自分の腰にしっかり回させる。
いつもと違い「弟」が「兄」をリードする。つまり、ふたりの仲は、年齢による上下関係ではなく、対等な関係であるのがわかる。
マニー以外にも、ふたりに手を差し伸べる人が登場する。
NGO(非政府組織)の社会福祉団体で働くジアエンという女性だ。
スラム街に住む貧困者たちのために、「身分証明書」の申請を手助けしている。
彼女はアディのために父にかけ合い、仲たがいしている息子を認知するよう手はずをととのえてくる。
あとは、アディが父に会い、身分証明書を申請するだけである。
だが、アディは頑(かたく)なにそれを拒み、説得する彼女に暴力を振るってしまう。
本作で描かれるような社会の周縁に追いやられた「見えない人びと」は、先進国と呼ばれる国々にも、もちろん存在する。
米国では、かつて非人道的と批判されようとも、強引に親子を引き離して違法移民を排除しようとしたトランプ政権がまもなく発足する。
そうした蛮行に警鐘を鳴らすこの映画の公開が時宜にかなっているのは、まことに皮肉なことである。
ジン・オング監督『ブラザー 富都(ブドゥ)のふたり』
越川芳明
舞台はマレーシアの首都クアラルンプールの富都(プドゥ)地区にあるスラム街。
そこには地元の買い物客で活気づく生鮮市場があり、住民たちは家賃の安い、衛生環境もよくない集合住宅に住む。
かれらは、多国籍の移民労働者だったり、不法滞在者やその二世だったり、マレーシア人でありながら身分証明書の
ない者だったり、障がい者やトランスジェンダーの人だったり……。
ミャンマーなど政情不安な国からやってきた難民もいる。要するに、みな社会的に疎外された貧困者たちだ。
主人公は、バハサ・マレー語で「兄」を意味するアバンと、「弟」を意味するアディだ。
「兄」アバンは幼いときに両親を亡くし、マレーシア人でありながら、出生証明書も身分証明書もない。
法的には「無国籍者」である。おまけに耳が不自由というハンデも抱えている。コミュニケーション手段は手話だ。
深夜に当局による抜き打ち捜査があると、連行されないように、集合住宅から必死に逃走しなければならない。
とはいえ、かれは悪事を働くどころか、性格は真面目そのものだ。生鮮市場で低賃金の運び屋として地道に汗をかく。
一方、「弟」アディは「兄」と性格がまったく異なり、生来のやんちゃ者だ。
違法滞在者たちに偽造身分証明書の作成を斡旋したり、金がほしいときは男娼になったりと、いわば裏社会に生きている。
肌身離さず出生証明書を携帯し、いざというときには、それを当局に見せてかろうじて逮捕を免れている有様だ。
この「兄弟」のように、マレーシアには両親が合法的な結婚をしていないとか、その他の理由で「身分証明書」を持っていない(あるいは、持てない)人が、一説によると、約三十万人もいるという。
身分証明書がどれほど重要かといえば、これがないと、銀行口座もひらけないし、パスポートも取れない、病院にもいけず、携帯電話も買えない。
つまり、この国でまともな日常生活を送ることができない。
こんな絶望的な状況のなかでも、救いの手を差し伸べてくれる人がいる。
同じ集合住宅にすむトランスジェンダーのマニーだ。
携帯電話を手にいれたり、ふたりを部屋に呼んで手料理をご馳走したりと、親代わりの存在だ。
とはいえ、マニー自身もイスラム社会のなかで「異常者」として白い目で見られ、まともな職にはつけていない。
実は、アバンとアディは血がつながっているわけではない。
だが、ふたりは同じ部屋で暮らし、ひとつのベッドで一緒に寝ている。
ふたりの間には、ホモセクシャルな親密さが漂う。
「兄」は何があっても、身を挺して「弟」を守り、やんちゃな「弟」も、堅実な「兄」を頼りについていく。
ふたつのシーンが注目に値する。
ひとつは、ゆで卵割りのシーンだ。
貧乏なふたりはガスコンロで生卵をゆでて食べる。
わびしい夕食だが、テーブルを挟んでかれらは互いに相手の額に卵をコツンコツンと当てて卵の殻を割る。
毎夕ふたりがゆで卵の殻を互いの額で割るのは、「兄弟」としての絆を深めるためにおこなう、一種の儀式である。
この世界には「帆」で「船」を表したり、「鳥居」で「神社」を表したりする間接表現がある。
だから、ひょっとしたら、ふたりの男性がゆで卵を互いに相手の額で割るこのシーンは、かれらの性交を表す「換喩」かもしれない。
イスラム社会で違法行為の同性愛を、間接的に映画表現してみせたものなのだ。
この象徴的な儀式が、映画の終盤に大きな物語的効果を発揮し、観客を感動させることになるが、詳しくは立ち入らない。
もうひとつは、マニーの部屋でひらかれた誕生パーティでのチークダンスのシーンである。
「兄」と「弟」は、ほかのゲイたちと同様、音楽に合わせてチークダンスを踊る。
そのとき、「弟」がためらいがちな「兄」の両手を引っぱり自分の腰にしっかり回させる。
いつもと違い「弟」が「兄」をリードする。つまり、ふたりの仲は、年齢による上下関係ではなく、対等な関係であるのがわかる。
マニー以外にも、ふたりに手を差し伸べる人が登場する。
NGO(非政府組織)の社会福祉団体で働くジアエンという女性だ。
スラム街に住む貧困者たちのために、「身分証明書」の申請を手助けしている。
彼女はアディのために父にかけ合い、仲たがいしている息子を認知するよう手はずをととのえてくる。
あとは、アディが父に会い、身分証明書を申請するだけである。
だが、アディは頑(かたく)なにそれを拒み、説得する彼女に暴力を振るってしまう。
本作で描かれるような社会の周縁に追いやられた「見えない人びと」は、先進国と呼ばれる国々にも、もちろん存在する。
米国では、かつて非人道的と批判されようとも、強引に親子を引き離して違法移民を排除しようとしたトランプ政権がまもなく発足する。
そうした蛮行に警鐘を鳴らすこの映画の公開が時宜にかなっているのは、まことに皮肉なことである。
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