越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

『世界政府(その2)』(第二回)

2011年02月05日 | 翻訳
(訳注:ひきつづきエスチューリンの『ビルダーバーグ倶楽部』からの引用です)

トラヴィスの亡霊

 1999年11月の第一週に、私は、地中海沿岸のローマ市ラツィオの近くの小村ラディスポリから投函された絵はがき(と、当初思えたもの)を受け取った。

 1980年3月30日は、私たちが公式にソ連を離れた日である。

 イタリア滞在中に、私たちはラディスポリに落ち着いた。

 その小さな村が、翌年、私たちの故郷になったのだった。
 
 私は街に出た。

 小雨が降っていた。

 幼児が二人楽しそうに水たまりを跳ねまわっていて、歩道に足跡を残していた。

 私は嵐雲を見あげながら、おしゃれな道路を渡って、家の近くにあるパブのドアを開けた。

 1999年11月29日のことである。

 あれは何を意味するのだろうか? 

 私はあの言葉を再び思い出した。「私は大丈夫。君がここにいると嬉しいんだが」。

 その下にファショダという署名。いったいこの男は何者なのか?
 
 「ファショダというのは人の名前じゃなく、場所の名前だ!」 

 私は心臓の鼓動が高まるのを感じた。

 1999年11月29日。(中略)ふと私は椅子に座ったまま背筋を伸ばした。

 「ファショダ。トラヴィス・リードだ!!!」
 
 トラヴィスというのは、1996年にキングズ・シティで開催されたビルダーバーグ倶楽部の会議で私が出会った犯罪人だった。

 ケチで素人ぽく、嫌われ者の盗人だった。(中略)

 トラヴィスは、逮捕されやすいタイプだったが、ほとんど同じスピードで、簡単に釈放されるのだった。

 後で分かったことだが、トラヴィス・リードは、犯罪者たちと働くために犯罪者になったらしい。

 彼はアメリカのCIA(中央情報局)やカナダのRCMP(王立カナダ騎馬警察)の両方に仕えていた工作員によってスーダンに送られた。(中略)

 このスーダンへの旅の詳細は明らかになっていないが、1989年のときと同様、この荒廃した土地は最も適切な理由によって、最も非適切なあらゆる犯罪者たちを惹きつけたのだった。

 「もしトラヴィスが私に会いたがっているならば、きっととんでもない事態になのだろう」と、私は独り言をいった。

 私は正直に認めなければならないが、事態が悪化した場合、私がつねに頼りにするのは昔のソ連の士官たちだった。

 何か内的な動機によって、彼らは西側に不信を抱いており、簡単に身売りしたりしない。

 それは、主要な新聞やマスコミ報道が人々に信じたがらせていることとは、まったく逆のことだ。
 
 彼らは、あなたが裏切りたくない階級の人々だ。

 私は、彼らと一緒だと自分が安全だと知っていた。

 私の祖父は1950年代初めにこうしたKGB(ソ連国家保安委員会)工作員の父親たちを救うために、身の危険を冒したことがあった。

 11月27日の深夜、私の携帯電話が鳴った。

 トラヴィスだった。

 いま、ローマの郊外のアジトにいるとのことだった。
 
 ――ピッツァ・デラ・レプブリカに午後5時半――そこで私は口を挟んだ。
 
 ――俺がルールを決める――トラヴィスが叫んだ。
 
 ――情報が欲しくないのか、ええ?――トラヴィスが訊いた。
 
 ――殺されるほどは、いらない――私は冷静に答えた。
 
 トラヴィスは会いにこなかった。

 午後8時半に私たちは銃を片手に、彼の家――もしそう呼んでもかまわなければの話だが――を急襲した。

 ワンルームのアジトは、完璧に散らかっていた。
 
 だが、争った跡はなく、トラヴィス・リードの血痕も死体もなかった。

 それ以来、私の知る限り、彼の消息は分からない。
 
 ときどき、トラヴィスの亡霊が私の脳裏の奥深くに出没する。

 それは、脆弱で過ちを犯しやすい人間精神をめぐる病的な思い出である。
 
 そうエスチューリンは第3章を締めくくる。
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