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山頭火の山河 《分け入っても青い山》    高橋透水

2014年10月02日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
分け入っても分け入っても青い山     山頭火

 山頭火が行乞の旅にでたのは、一九二六年(大正十五)のことである。曹洞宗大本山の永平寺で、山頭火は本式修行を望んでいたが、実現しなかった。年齢的なこともあり、きびしい修行に耐えられないだろうと報恩寺の義庵和尚が判断してのことだ。山頭火の世俗を捨てたいという思いは果たせなかった。
 かといって、熊本で世話になっていた味取観音堂にも安住できず、山頭火は行乞にでる決心をした。味取観音堂とは、報恩寺の末寺で瑞泉寺のことである。山頭火は出家得度を果たした後、法名を耕畝と称してここで堂守(番人)となっていた。
 そんな時に驚愕な報せがあった。面識はなかったものの心の通じあっていた尾崎放哉が、小豆島の西光寺南郷庵で亡くなったという、木村緑平からのハガキだった。緑平は自由律俳句誌「層雲」を知り、投句を続けていた。山頭火は、緑平よりも一年先に「層雲」で活躍しており、緑平は山頭火の才能に惚れ込み、資金的な援助を惜しまず、何かと面倒をみた。
 あたかも放哉の死の報せに促されたかのように、山頭火は味取観音堂を飛び出した。緑平から知らせを受け取った数日後のことである。
 さて、掲句の前書きに「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と述べているが、「解くすべもない」とはやはり過去の不幸だろう。母の死、姉の正体不明の病死、実弟二郎の縊死などなど。解くすべもない不幸の連続が、山頭火を苦しめたのだろう。更に、恋慕していた友人工藤好美の妹の死に直面し、人生の果敢なさを嘆いたとの説もあるが検証すべき点が多い。
 出家した身だが絶えず生くべきか死すべきかの迷いがあった。そんな時、同じ心境の放哉が死の旅に出た。死に憧れた山頭火には先を越された思いと、羨望があった。しかしどうしても自分は死ぬことが出来ない。貧しくとも寺守として安住の生活ができたはずだが、心とは裏腹に過去の業を背負いつつも脚は放浪の旅、宮崎・大分へと向かっていた。


俳誌『鷗座』2014年10月号掲載より。



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