外にも出よ触るるばかりに春の月 汀女
昭和二十一年作。『花影』所載。
数人の集いがあり、知人宅に立ち寄ったときの句。一人早々に辞して外にでた。その時、向いの家の屋根から触れんばかりの月が出ていた。滴るような月の近さに息をのんだ。家に残っていた人たちに「外に出てごらんなさい!」と思わず叫んだ時の様子を句にしたもの。それほど魅惑的な春の月であったのだ。
昭和二十年三月の東京大空襲を危うく免れた中村家であったが、生活の貧窮は続いていた。戦後の混乱と食糧難などの困窮はあるものの、この句から、なにかの寄合の帰りに久振りに明るい春の月を見上げたときの、何とも言えない平和を感じる一瞬が伝わってくる。
この句は汀女の代表句に数えられ、鑑賞文や評論も多い。そんな中から汀女の生活面を語った文を紹介します。ただし文は多少端折っています。
「このころは四十代半ば。終戦直後の東京住まいで、多くの日本人がそうであったように暮らしはけっして楽ではなかった」。「おかげで戦火はまぬがれたもののわが家(中村家)にはたちまちパージが待っていた。大蔵省をやめた後、戦争中は金融公庫に勤めていた(汀女の)夫がパージを受け、経済的に逼迫していた時期でもあった」。「しかしそんな日々の中で近所に住む作家の大谷藤子や、その縁で紹介された富本一枝、さらに富本の知人等々と交流が広がった」。
「ちなみに富本一枝はかつての婦人運動の闘士で、平塚らいてうを中心とする雑誌『青鞜』の同人でもあった人物」。「汀女と一枝はやがて意気投合し、昭和二十二年に汀女が俳誌『風花』を創刊したときに一枝が編集を担当している」。
『中村汀女 汀女の自画像』(日本図書センター)及び、栗木京子「中村汀女」(『鑑賞 女性俳句の世界』角川学芸出版)を参照。
句集『花影』は昭和十八年から昭和二十二年までの作品をまとめ、昭和二十三年、三有社から出版された。その中から、注目句をみてみたい。
家事明りまた輝きて一機過ぐ
一脚の運び残せし籐椅子かな
東京では連日空襲警報に戦戦恐恐している日々であったが、意外にも汀女は「火事明りに見えるB29は残念ながら美しいと思った。」と述べている。この感性は後に非難の対象にもなった。
手袋の手にはや春の月明り
(空襲警報に明け暮れていた或る夜に、もうこれは春の月だと感じたときはうれしかった。戦争の険しさとは別にほっとしたことを忘れない。ただ近隣の疎開のあわただしさ。男の子たちも連日の勤労奉仕であり、疎開する気はもたなかったけれど、前うしろ、お隣も出て行かれると、さすがに心細かった。『中村汀女 汀女の自画像』(日本図書センター)
炎天や早や焦土とも思はなく
こうした句だけ論って汀女を非難することはできないだろう。極限に置かれると、人間は意外と業火さえ美しいと見える心理状態になることも確かだから。最後の句などは汀女の気分の切り替えのはやさ、いや諦念の表出というべきか。あくまでも明るく、前向きで楽観的な性格の持ち主だったようだ。
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