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芭蕉は松島の句はなぜ出来なかったか 高橋透水

2020年04月11日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 急ぎに急いだ松島

 
 芭蕉は、「おくのほそ道」の中で松島の句を示していな
い。その訳は服部土芳の『三冊子』にある「師のいはく、
『絶景にむかふ時は、うばはれて不叶』」をもとに考えれ
ば、松島では、「扶桑第一の好風」をまのあたりにし、感
動の余り思うように句が作れなかったということになる。
 その一方で、中国の文人的姿勢「景にあうては唖す(絶景
の前では黙して語らず)」に感化され、意識的に句を示さ
なかったとする見方もある。つまり、「師、まつ嶋にて句
なし。大切の事也」ということか。
 しかし、現実はどうだったか。一つに芭蕉の体調不良が
考えられるが、それよりも松島に月は出ていたが、芭蕉の
イメージしていた光景は見られなかったのではないか。た
とえ見えても梅雨時の朧月のようなものだったろうから、
とても仲秋の名月のような光景は期待できなかった。
 芭蕉は西行が訪れた瑞巌寺へ行き、「彼の見仏聖の寺は
いづくにやとしたはる」と記している。「見仏聖」とは、
『撰集抄』などに登場する人物だが、西行が慕った平安末
期の高僧でほぼ仙人のごとき能力の持ち主だった。そんな
西行も松島の歌を残していないし、能円の歌も残ってい
ない。そんな先人への芭蕉の配慮があったのだろうか。
 ここで当時の社会状態を参考のために見てみたい。この
頃(芭蕉がおくのほそ道に出発する前)数年続いたという
群発地震によって家康を祀った東照宮、三代家光の霊廟大
猷院が破損していた。その改修あるいは改築を命じられた
のが伊達藩(仙台藩)であった。その莫大な費用捻出のた
めに家老たちは頭をいためていた。芭蕉はそんな現地の様
子を伺う目的があったのではなかろうか。
 「おくのほそ道」に記すことはなかったが、芭蕉の句に
「島々や千々に砕きて夏の海」という松島を詠んだものが
あり、本句は「蕉翁全伝附録」に、「松島は好風扶桑第一
の景とかや。古今の人の風情、この島にのみおもひよせて、
心を尽し、たくみをめぐらす。をよそ海のよも三里計にて、
さまざまの島々、奇曲天工の妙を刻なせるがごとく、おの
おの松生茂りて、うるはしさ花やかさ、いはむかたなし」
の前書付きで所収されている。
 それにしても、「おくのほそ道」の松島の下りは、漢文
調で美文的すぎる。しかもこれは「抑ことふりたれど」と
あるように、「松嶋眺望集」その他の文献を念頭にして綴
った表現が多々みられる。実感が感じられないということ
は、松島は芭蕉が期待したほどの景勝地でなかったか、芭
蕉になんらかの(私的な)事情があってのことだろう。つ
まり芭蕉が句を詠む状況でなかったと考えられる。


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