のびたとブレイク

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定時性高校へ通う私を励まし続けた方の喪中葉書

2013年11月18日 10時01分33秒 | その他

今の時期は 喪中葉書が届き 年毎にその数が増えてくるようだ
大概は両親のいずれかだろうから 年齢からして仕方ない現実である
その中で 一通 想い出深い方の亡くなった報せには少し胸を痛めた

その方とは 50年も会っていないが 年賀は欠かさず出し続けてきた
私が中学を卒業した歳から 走馬灯のように想い出が駆け巡る
私の家は貧しくて 修学旅行も自分で辞退したほどである

母はすまないねと言ったが 私は別にそんなに感傷的にはならなかった
ただ高校は行きたいので 夜学を選んで 昼間は働くことにした
しかし就職は 大きな会社では無理 17時からでは早退となる

そのため 町工場へ入った 16時でも退社が可能だった
機械工場なので 作業衣を着ても真っ黒に油で汚れた
15歳の春から4年間 工業高校へ通い続けた



町工場の仕事は 月2回しか休みが無く 年中 残業 徹夜があった
時には 昼間働いて 夜 学校へ行って また工場へ戻り 仕事をした
仮眠を取って 夜中から次の日の昼間を働き また学校へ行った

さすがに2日目の学校は 睡魔に襲われ 勉強どころではなかった
今の世の中では労基法でも問題になるし過重労働を少年に強いる事になる
それでも良いことがご主人と奥さんが理解かあり 私を励ましてくれた



お二人は小学校の教員同士で恋愛結婚の末 一緒になった
父親の経営する町工場が 親の体調から後を継ぎ 二人とも退職した
教員から 機械工場の仕事へ 大きな人生の転換を果たしたのである

徹夜などをすると 奥さんが 食事を作ってくれた
朝は大したもので無いが 卵が入った味噌汁が美味しかった
時には 餅を焼いてくれたり お汁粉まで作ってくれる

お汁粉などは 丼で2杯も食べて 驚いていた
当時は 朝のパンは一斤食べても太らない 大変な量である
あなたの食べ方は 本当に美味しそうに食べるねと 良く言われた

僅かな給料を将来結婚するために 細々と積み立ててくれたのも奥さん
それは ささやかな式を挙げられる金額となって 奥さんが褒めていた
親の援助を受けずに質素でも結婚式を挙げるのは素晴らしいことよと言う 

中学を出て初めて貰った給料の 大半は家の生活費に入れた
自分で稼いだお金が嬉しかったものである
この頃 親の無い子の施設へ ボランティアに行った

私より恵まれない子供たちが大勢居る
ただ遊ぶことと 僅かな金額で買える 木琴や文房具を持って行ったりした
私のボランティア人生は ここが原点である



そんな私を褒めてくれたり 支えてくれたご主人と奥さん
私が退職後 悲しい報せがあった
最愛の娘さんが20歳で 突然死した

哀しみはいかほどであろうかと その幼い姿は知っているので私も涙した
成人式に着るために用意した晴れ着は 棺の中に納まった
ご主人はその後 木彫りを覚え 観音像ばかり彫っていたようである

お付き合いの年賀状もあるが 心を込めて50年出し続けた
一度はあなたの うたごえの伴奏で歌って見たいと賀状に添え書きもあった
今年はダメだが 来年は出せるようにご主人が元気で居て欲しい

     最後までお読みくださいまして有難うございました 
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