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「お笑いウルトラクイズ」の過去を知りたい人はこちらを・・・

2007年01月01日 | 映画・DVD・ビデオ
ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!! Vol.1

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内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
89年にスタートした命知らずのデンジャラスバラエティの第1巻。放送回を重ねるごとに多くの非難と喝采を浴びたサバイバルクイズツアーが蘇る。「人間性クイズ」や「クイズ粘着大相撲」「バスアップダウンクイズ」などを収める第1回から第10回を収録。
ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!! Vol.2

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内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
89年にスタートした命知らずのデンジャラスバラエティの第2巻。出演者やスケール感、ストーリー性を重視した後期作品をピックアップ。「たけし大脱出」「バスアップダウンクイズ」「ポール牧指パッチンクイズ」などを収める第11回から第19回を収録。

過去の放送では、ほんまにこんな事していいの???芸人が死んでしまうんとちゃう、と思う様な過激なクイズが次々と登場していた。当時のスタッフの話でも、よく重傷者が出なかったとの事。凄い番組だ。
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やっぱり「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」は面白い。

2007年01月01日 | テレビ番組
ビートたけしのお笑いウルトラクイズ(びーとたけしのおわらいうるとらくいず)は1989年1月2日から1996年4月6日にかけて日本テレビ系列で放送された特別番組。なお、2007年1月1日 20:30から、3時間の正月特番として復活が決定している。
概要
同局系の看板番組であった『アメリカ横断ウルトラクイズ』をモチーフとしたお笑いタレント版クイズ番組としてスタート。芸人数十人を集め、熱海やスパリゾートハワイアンズなど東京近郊の温泉地に宿泊しながらロケを行い、クイズ(というより過酷なゲーム)で体力・知力を競い優勝者を決する伝説的な番組として知られている。
放送回数を重ねるたびにクイズ番組の趣旨から大きく離れていき、プロレスラーとの対戦やスカイダイビング、爆破、カースタントといった過酷な企画に挑む芸人達のリアクション芸に重きがおかれるようになる。過去に実績を残した芸人数名が毎回ターゲットとなって勝ち残り、どうでもいい無茶な問題に答えるために、過酷なゲームにチャレンジさせられ、残った一人が「優勝セレモニー」(ウィニング・ラン)という名の罰ゲームに挑戦させられるという「様式美」が完成、視聴者を抱腹絶倒させ、楽しませた。
優勝者には、1991年春から「唐草模様のジャケット」が贈られることになっているが、毎回、何らかの理由をつけて(無茶なゲームをさせて)、与えようとはしなかった。
また、「人間性クイズ」という、もはやクイズとは あまりにもかけ離れたドッキリ企画も評判を呼んだ。さらには、芸人をもてあそぶだけだった司会のたけしがだまされてしまい、熱湯に浸かるなどのシチュエーションに陥る「下剋上」は、視聴者の溜飲を下げ、番組にある種の清涼感を与えるまでに至った。
長らく復活を望むファンが数多くおり、2006年現在のお笑いブームと相まって、約10年振りに同番組が復活する事が11月28日、日本テレビより正式発表となった。収録は12月5・6日。放送時間は、2007年1月1日20:30~23:30のゴールデンタイム枠(前日の2006年12月31日11:40~13:45には一部地域を除いてPR番組を放送した)。たけしの出演はもちろん、ニュース番組を降板して以来テレビ等に出演していなかった山本モナが、オフィス北野の所属であることから、この番組で復帰する。
主な人気企画
基本的に“クイズ”というのは建前に過ぎず、回答の正誤よりも芸人としてのリアクションが重視される。そのため優勝者は大抵目立った参加者や芸人として「おいしかった参加者」という傾向がある。本家『アメリカ横断ウルトラクイズ』の“クイズ”と“罰ゲーム”を最初から足していると思えばよいだろう。カースタントや火薬を使って爆破させる企画が多く、芸人達が体を張って挑戦した。ダチョウ倶楽部や出川哲朗にとってはこの番組で出世したと言っても過言ではない。
○×クイズ
殆どの回の序盤で行われるクイズ
初期は本家のアメリカ横断ウルトラクイズに倣って、○か×か正しいと思う方のパネルを突き破り、不正解だと粉まみれになったり、海に落下した
その後、爆撃や海に沈められるといった形式に変化
○×爆破クイズ
○か×か正しいと思う方のエリアに移動
不正解のエリアは、戦車による砲撃やヘリコプターからの爆撃、ミサイル攻撃によって爆破される(実際は、攻撃のタイミングに合わせて地中に埋めた火薬を爆破させて、爆撃された様に見せかけている)
沖縄ロケの際には実際の在日米軍(主に海兵隊)が協力、また戦車は映画『戦国自衛隊』・『ぼくらの七日間戦争』で使用された61式戦車のレプリカを使用する等本物志向であった
オチとして、エリア外を逃げ回っても結局爆撃されてしまう。
誰かが脱いでいる。(ガダルカナル・タカ、井出らっきょ、上島竜兵あたりの可能性が高い)
バスアップダウンクイズ
○バスか×バスか、正しいと思うバスに乗車
不正解のバスはクレーンで吊り上げられ、海上でクイズを行い誤答するとそのまま沈められる。
二台用意されたバスは一方が明らかにボロボロであり、お約束として皆ボロボロの方に乗り込んでいた。
地元漁師が漁を止めた程の大時化の海で行った為、死人が出てもおかしくない過酷な状況下でのクイズとなり、視聴者・出演者共に番組の名シーンとして挙げる事が多い
石倉三郎○×クイズ
第2回に行われた企画
石倉三郎に関する○×クイズが3問出題される。
○か×か正しいと思う方のエリアに移動
正解発表後、芸人たちに石倉に関するエピソードが暴露された。
最後の3問目のゾーンは落とし穴になっており、隠れていた石倉本人が激怒してハリセンで芸人を襲うというオチだった。
 人間ロケットクイズ
クイズに間違えたり、早押しの解答権を得ようとする際に、人間ロケット(いわゆる逆バンジージャンプ)をさせられる
最初は垂直に上がるタイプであったが、以降は斜め方向へ正にロケットの様に発射される装置になった
お約束として、不自然な衣装を着たダチョウ倶楽部の上島が、人間ロケットの際に衣装が脱げて、全裸になる。最初の数回は綺麗に脱げなかった等失敗続きであったが、キャイ~ンのウドと合同で挑戦した際には、両者の衣装がスッポリと綺麗に脱げて大成功、2人は空中で喜びの抱擁をした。
ダジャレクイズ
温泉に浸かったり、サウナや冷凍庫の中に閉じ込められたり、金粉を全身に塗ってマラソンをしている状態で長時間ゲストの講演や歌を聞いた後、お題の物を使ったダジャレを答える。
合格する(面白いダジャレを言う)まで解放されない。
歌のゲストで最も登場していたのはにしきのあきら(現・錦野旦)であった。
マラソンクイズでは当時チャンピオンだった辰吉丈一郎も講演者側になったことがあるが、渡嘉敷勝男が話を伸ばす努力をしたこともあり、金粉まみれで苦しんでいる回答者たちからは散々な罵られようだった。
粘着もの
ゴキブリ駆除に使われる様な、非常に粘着力の強い物質の上でクイズを行う。
クイズ収録後、数時間かけないと取れない程強力な為、挑戦者の殆どは髪の毛部分をタイツやフェイスガードなどで覆って挑戦(井手らっきょを含む)、また参加すると特別手当も貰えた。
間違えると乗っている滑り台が傾けられて粘着へ落とされる、粘着の上で相撲やポカポカドボンを行う等様々な趣向で行われたが、末期は後述の格闘技クイズでの罰ゾーンの一角として設けられた。
粘着を長く伸ばせば伸ばすほど賞賛される。
プロレス(格闘技)字読みクイズ
キラー・カーンや佐竹雅昭らプロレスラー・格闘家を相手に、挑戦者が勝負を挑む。
格闘家以外にも女子プロレスラーを相手の公然猥褻もお楽しみであった。
足の裏や内股に貼ってある単語を読み取れば正解なのだが、次第にこのルールはスルーされ専ら格闘家と挑戦者の闘いと後述の罰ゾーンでの挑戦者の状態を楽しむ傾向になっていた。
ダチョウ倶楽部が3対1で挑むもコンビネーションがバラバラだったり、井手らっきょと春一番のアントニオ猪木のものまねを持ちネタとする者同士でタッグを組んで挑戦する等がお約束。ただし、出演者たちが相手レスラーを挑発するときに、実際のリング上で発せられたセリフを使ったり、プロレス作法にのっとった動きを見せるなどして、出演するレスラーに対して相応の敬意も示していた(ダチョウ倶楽部や春一番は根っからのプロレスファンである)。
当初リング周囲には何もなかったが、後に水溶き小麦粉や爆破、粘着や海といった罰ゾーンが設置された。
終了後、春一番の「本日は負けてしまいましたが~」「いくぞー!」「1、2、3、だーっ!」が恒例だった。
たけし十番勝負
参加者ばかりに過酷なクイズをさせている事に対して一部から抗議があった事に端を発した企画
たけし軍団として配下に置いているダンカンやラッシャー板前らとゲームで対決したり、大脱出に挑戦したり、ワイヤーで吊るされた状態で巨大しゃぶしゃぶや焼肉の料理に挑戦している
対決もの
じゃんけん水かけゲームやポカポカドボン、すまきプロレス(双方がマットで簀巻きにされた状態で、周囲に粉が敷かれたリング上でプロレス)で等で挑戦者と直接対決
大脱出もの
制限時間以内に脱出しないと爆破される個室の中に閉じ込められた状況下で、個室からの脱出を試みる
爆破が予想より早い・中々脱出しない(ように見せて)見ている参加者をやきもきさせているが、脱出は無事成功させる(その点は、後述の人間性クイズに通じるものもある)。ただし、本当はツッコめる、変な格好で出てくる場合が多い。
「シャワールーム大脱出」はラッシャー板前と2人で挑戦。2人とも脱出に成功した。
「デビルタワー大脱出」はその後、ほぼ同じ仕掛けや制作班で香取慎吾や松浦亜弥、岡村隆史が挑戦している(彼らも成功)
ワイヤー吊り上げもの
たけしがワイヤーに吊るされて参加者がそのワイヤーを持っている状態で、彼らのアシスト(上げ下げ)により、たけしが巨大なしゃぶしゃぶや焼肉を調理する
が、お約束として異常に高くしたり、逆に手を離してしゃぶしゃぶの鍋や焼肉の熱された鉄板にたけしの体を落としてしまう事も多々
内村光良がタネを作る役、たけしがそれを焼く役として、共作でお好み焼き作りに挑戦した回もある
『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』の野球大会企画にたけしが出演し、そのお礼を兼ねて、内村が出演した
同様の装置でめちゃイケの日本一周にて中居正広が巨大焼きそば作りに挑戦した。
人間性クイズ
いわゆるドッキリで、このコーナーだけはクイズとは本当に無関係である
参加者をはめる事が多いが、ビートたけしも1度だけ、偽企画でサウナに閉じ込められた事がある
先輩・後輩もの
先輩芸人が後輩芸人に対して力関係を使い、ホモプレイやSMプレイを強要する
仕掛け役として出川哲朗、ポール牧、岡村隆史、上島竜兵ら
仕掛け役のはずが逆に騙される逆襲パターンも多い。例えば、チャンバラトリオの結城哲也が仕掛け役になった「チャンバラトリオ結城哲也はSMがお好き」では、仕掛けられ役の上島が、逆に結城に対しお得意のホモSMで逆襲した。
出川哲朗も仕掛け役であったが(表面上は上述の結城同様後輩にSMプレイを強要させるもの)、岡村にSMプレイをしている最中に岡村がキレるというシチュエーションがあり、マジ切れした岡村に対し、出川はあたふたしていた。その後「番組を台無しにしやがって!」と、出川がたけしに激怒されていた(勿論、逆ドッキリの一環)。
お色気もの
マッサージを頼んだら、いつの間にかマッサージ嬢がSM嬢やプロレスラーに変わって痛い目に会わされたり、ターゲットを露天風呂の女湯覗きに誘う等
家族・恋人同席もの
ターゲットが酔わされて裸になっていたり女性タレントを口説いている様子を、ターゲットの家族や婚約者、恋人がこっそりと見ているというもの
ターゲットは、井手らっきょ、ガダルカナル・タカ、谷隼人、上島竜兵ら
スタントクイズ
カースタントの名門・タカハシレーシングの協力の下、カースタント、バススタント、モーターボートスタント等、様々なスタントに参加者が挑戦
お約束として、クライマックスはぶつかると爆破・炎上する(もしくは既に炎上している)張りぼてのバスに突っ込むスタントがある
ヘリコプタークイズ
ヘリコプターから下ろされた縄梯子を登り、途中にある問題に答えて正解というもの。第一回、第三回の決勝問題。
答える以前に縄梯子に取り付いて空へ飛び上がればそれで正解となる。
スカイダイビングクイズ
○×クイズや早挙手クイズ等、様々な方法で参加者にスカイダイビング(タンデムジャンプ)をさせた
空中パラシュート受け取りクイズ
ダチョウ倶楽部の上島が挑戦
インストラクターがパラシュートを背負っておらず、落下中に○か×か正しいパラシュートを選んで装着しないといけない
間違いのパラシュートは開かず、また猶予も1分強と、インストラクターも半ば諦めた程非常に猶予時間が短い状況下の中だったが、見事成功
その他
ワニクイズ(熱川バナナワニ園での収録。)
アクリルボックスに頭を突っ込んで、中にいるワニと対面した状態でクイズに挑む
誤答毎に反対側からワニが接近
このクイズで見せた桜金造のリアクションは伝説。
「(ワニが)シュ~って言ってるよ!シュ~って!」は名言。
ワニが急接近して、泣きながらアクリルボックスをこわしてなんとか逃げた・・・など。
派生型としてワニ池の上を鶏肉付でロープで渡ったり、金網越しにワニの腹に記された文字を読む字読みクイズも登場した。
人間水車クイズ
水車の側面に大の字に縛られた姿でクイズの問題や質問に解答
誤答する毎に水車が回転し頭が水没
たけしが張り付けになって、当時話題になっていた宮沢りえとの関係を質問された時は、その模様やたけしの発言が、翌日のスポーツ新聞各誌で記事となった
熱湯イントロクイズ ドレミファポン!
曲のイントロを聴き、熱湯で満たされたプールにある浮島のマイクでその曲を歌えば正解。
熱湯はタコが茹で上がるほどの温度で、岸には氷を入れた箱が用意してあった。
最後になぜか全裸になった上島が、キラー・カーンと一緒にウォータースライダーで滑り降りるという罰ゲームを受けた。
リュックサック爆破クイズ
爆薬が入っているリュックサックを背負い、クイズに正解できないと導火線に火をつけられて爆破される。
ダンカンが挑戦した際は参加者から離れると見せかけて自爆テロさながらの突撃をみせた。
ダチョウ倶楽部が挑戦した際、爆破の炎が頭に直撃し、頭が焦げてしまった。
愛車破壊クイズ
芸人に対してクイズを出題し、クイズに間違えると大型ブルドーザーでその芸人の愛車を踏み潰していく物。
結果としては、“手違い”という形で正解しても誤答してもブルドーザーを前進させ、愛車を破壊していった。同型の新車(または改良型の新車)を後になって愛車を破壊された芸人に譲り渡したが、これらの負担は製作局の全額負担であった。
政治家クイズ王日本一決定戦(拷問つき)
5人の国会議員と出演者のペアによる早押しクイズ
解答権があるのは国会議員のみで、お手つき・誤答すると出演者が乗っている三角木馬の角度が鋭角になっていく。
5問正解で勝ち抜け。最後の負け残りペアが罰ゲーム。(出演者のみ罰ゲーム)
罰ゲームはロデオ機能付き三角木馬に乗り、国会議員が誤答すると木馬が激しく動く。
負け残った上島が罰ゲームを受けた。
主な出来事
定期的開催時代
第1回は、あまり予算もなく、オープニングも都内某所の公園にて行なわれ、他のロケも都内の公共交通機関を使って行なわれた、最後のコーナーも東京の江戸川にて行なわれるぐらいで大きな企画は出来なかった、また芸人参加者によるバスツアー形式のクイズは前半の1時間程度のみで、後半の1時間はたけし軍団らがロケに赴いたVTRから出題されるクイズや下品な言葉を言わないとパネルを捲る事が出来ない神経衰弱等をゲストの女優陣に答えさせていた(第1回の優勝者への賞品は、後半パートへの参加権)。
だが第1回の視聴率が予想よりはるかに越え、第2回は元日夜9時からの放送となり「新春かくし芸大会」(フジテレビ系)の真裏で放送され、それと同時に第2回以降から予算も徐々に上がりバススタントやスカイダイビングなどの大掛かりな企画が出来るようになった、バスツアー部分に割かれる時間も回を増す毎に増加した(第19回はスタジオ収録は無し)。その結果第2回も高視聴率を獲得。1996年まで元日に加え春・秋の年3回に増し、一方のかくし芸は1994年から前年の4時間から3時間半に縮小された。
番組が終了する間近ぐらいの回に野放しされている土佐犬の上に宙つりされている芸人がクイズに答え、不正解だと土佐犬に噛まれる距離まで近ついて、最終的に土佐犬に噛まれる企画があったが収録当日の日が予想よりも気温が高く、いつもは威勢の良い土佐犬もこの気温でばてて噛む状況にはならなくなり結局企画倒れに終わる、結局この企画はボツ企画となった、またこの企画の他にも様々な事情によりボツ企画が多数ある。実際に、負傷及び流血の可能性が高い企画案は一切採用されていない。
ダチョウ倶楽部の名をあげたリュックサック爆破クイズでは、爆破の炎が頭に直撃し頭が焦げてしまったが、その際、とても「おいしい」ハプニングになったということで、その夜、プロデューサーから「おいしい」トンカツをごちそうしてもらった。
第9回の時に行われた「溺死寸前!バス吊り下げアップダウンクイズ」は番組史上最も危険かつ秀逸な企画。クイズを間違った芸人達を乗せたバスが海へ沈められる企画だったのだが、収録当日の海が大荒れ状態だったにもかかわらず、収録は決行。荒れ狂う海に芸人たちがバスもろとも沈められ上島竜兵などは本当に溺死寸前となった(ラッシャー板前が助けてくれた、と上島は述懐している)。だがそんな切迫した状況においても犠牲者たちが笑いを忘れない振る舞いを見せた事がこのクイズを名企画へ押し上げた。(DVD発売の際には、初回特典としてこれをモチーフにしたブルブル震える手のひらサイズのバス型ぬいぐるみが付いてきた)
粘着を使う企画にて、粘着が固まり易過ぎて(皮膚から粘着を剥がすのに収録終了から5時間もかかった)出演者・スタッフ共々苦慮していた、そこで固まりにくいラブラバー(歯形を取る時に使われる、凝固し易い赤色のシリコン)を使ってみたが今度は逆に固まりが悪かった、そこで今度はどろどろに溶けた蝋を用いたが結局粘着と同じ位の粘着力だったと言う。
第15回のグランドチャンピオン決定戦では、決勝のカースタントクイズにてクイズに正解すればグランドチャンピオンの栄誉に輝くものだったが、出場した桜金造とダチョウ倶楽部は途中でリタイアし最後に残った井手らっきょとダンカンで優勝争いを行う事に、解答権を奪い合う際にダンカンが乗る車が大転しダンカンはリタイア、最後に残った井手らっきょもボケて不正解になり、結局グランドチャンピオン不在となった。
この番組は低俗番組と呼ばれたことから視聴者からのクレームが放送回数が増えるたびに多くなり、一部のレギュラー枠を提供しているスポンサーも別スポンサーに差しかえることも多々有った。番組が終了した後に日本テレビの上層部から番組プロデューサーにその件に関する処分が下った。また、参加芸人に対しての賠償も桁外れな額にのぼっており、それらの負担は総て日本テレビが負った。
低俗番組と呼ばれたことから視聴者からのクレームが放送回数が増えるたびに多くなっていったが、これらのクレームは当時の出演者のふるまいが『リアクション芸』として認知されていなかった故の非難だったとも言える。このため現在、この番組を『リアクション芸』の発祥として再評価する向きもある。
後述でも触れているが第11回大会以前は司会のビートたけしは参加せずにただ見ているだけで、「ばかやろっ」と悲鳴をあげる芸人をあざ笑っていたため、たけしの毒のある笑いを理解している視聴者までも激怒させた。この為たけしは一時「人間失格」と一部の論客から非難されていたほどである。しかし、これに対してたけしは「自分の看板番組で自分自身が参加しては、他の出演者が目立たなくなる」ということで参加はしていなかった、と後述のDVDに収録された座談会でダンカンなどが語っている。そもそも、この番組自体の趣旨は「たけしが、まだ売れていないがおもしろい芸人を集め、『救済』という形で仕事を与える」ことにあった、としている。だが、世間の声は無視できず、「たけしも解答者として参加させるべき」という声が日本テレビ内部(特に製作スタッフ)からも上がった。
この結果、第11回大会において、ビートたけしの師匠である松鶴家千代若・千代菊から「たけしも司会で見てるだけではなく、他の芸人とともに参加しろ!」という言葉でたけしも芸人と一緒に参加する事になった(「第1回宝田明のお笑いウルトラクイズ」として宝田明が司会。しかし、1日目で帰ってしまった)。そして、様々なクイズに参加して活躍し最後の決勝ではカースタントに挑戦した、だがそのカースタントでは、車が横転して危機的状況になり車から脱け出したたけしの行動を見て、車に一緒に乗車し運転していたタカハシレーシングの社長の高橋が現場で逃げ回った。
1994年8月にビートたけしがバイク事故に遭い療養していたため、1994年秋と1995年正月は収録及び放送をせず、1994年12月30日(金)に「金曜ロードショー」枠内で事故を起こす前に収録された「北野武のお笑いウルトラクイズ講座」を放送した(第16回扱い)これは、本来は3巻分のビデオで発売する予定だった内容の総集編を、更に番組として2時間に再編集したものである(後にビデオも発売)。また1995年春もたけしが仕事復帰したが番組は無かった。
第13回大会の優勝記念のウイニングラン。出川哲朗が車のボンネットに張り付けになって、大型バスに突っ込んで大型バスが爆破する企画だったのだが、スタントが終わり出川が張り付けになっていた車から下りた直後、車がアクシデントで爆発し、それを見たスタッフが「惜しかったねー、乗ってるときに爆発すればおいしかったのに」と言った(後に、出川哲朗本人が24時間テレビの深夜のコーナーにて、「あの人達(お笑いウルトラクイズのスタッフ)は頭がおかしいですよ!乗ってる時に車が爆発したら死んじゃいますよ!」と暴露した、また後述のDVDに収録された座談会でも語っている)。
この番組をきっかけに、90年代はカースタントや爆破ものを使ったバラエティ番組が多くなった。また、タカハシレーシングがバラエティ番組の企画に協力する事も多くなっていた。しかし2000年代に入るとBPOなどにより規制が厳しくなり、爆破ものを使った企画は非常に少なくなってきている。
沖縄で行われた回では、オープニングを漫湖公園で行った。(言うまでも無く名前で笑いを取る為)
山崎邦正がこの番組に出演した際、美味しい所の殆どを新人だったナインティナイン・岡村隆史に持っていかれてしまい、「番組が悪い。自分の魅力を引き出してくれない。たけしさんが悪い。」と言い、傲慢にも以降出演を断った。これについては山崎がダウンタウンのシンパである事も少なからず影響しているのではという説もある。
第4回では岸谷五朗と寺脇康文が「SET隊」としてツアーに参加していた、芸人が目立っていた中での参加だったが、出番はほとんど無かった。スタジオでもたけしから聞かれると、岸谷は「私達は参加したんですかね?」とスタジオの笑いを誘った。
回数カウントはきちんとされているが、たけしの開催の挨拶では、必ず「第○○○回」と極端に大きい回数が発せられ、とりあえずオープニングもその回数で表示される場合が多い。なお、正式な回数は2007年正月放送の時点で、アメリカ横断ウルトラクイズの回数を3回上回っている。
1991年秋-1994年春まで「スーパークイズスペシャル」ではこの番組用にクイズを出題。近似値クイズや過去のたけしの被り物の映像を見てその映像からクイズを出題した。また1993年春-1996年春までは出場番組として参加した(優勝したのは1993年春の1回で1995年春は放送の予定が無かったにもかかわらず出場した)

久しぶりに今夜見て、笑い転げた。最高。

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「みどり電化」の看板。もちろん関西。

2007年01月01日 | エッセイ・日記・意見
「店の駐車場」の説明の看板にお隣の店を「トヨタさん」と「さん付け」しているのが、関西らしい「人と人の関係の近さ」を表している様に僕には思えた。東京ではこういう看板は無いだろう。
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「サダム・フセイン」処刑。

2007年01月01日 | エッセイ・日記・意見
子供に「フセイン」は何をした人?と突然訊かれ、説明ができなかった。調べてみる事に。



サッダーム・フセイン (صدام حسين 、1937年4月28日 - 2006年12月30日)は、イラクの政治家。前イラク共和国大統領、前首相、前革命指導評議会議長。バース党地域指導部書記長。アラブ人、スンナ派イスラム教徒(ムスリム)。

生い立ち
イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で羊飼いの家庭の子として生まれ、「直進する者」を意味するサッダームの名を受けた。父フセイン・アブドゥルマジド(フセイン・アル=マジドとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・トゥルファはまもなく再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。

10歳の時から母方の叔父ハイラッラー・トゥルファのもとで暮らした。彼の敵に屈しない性格とイラク国粋主義的なアラブ民族主義は叔父の影響から生まれたと言われている。1950年代はエジプトで革命が起こり、王制が倒されてナーセル政権が樹立に向かっている時期にあたり、アラブ諸国ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。1958年にはイラクでもクーデターにより王制が打倒されている。

1955年、首都バグダードに上京したサッダームはまもなくバース党に入党して革命活動に入った。バース党は王制を打倒して政権についたアブドゥルカリーム・カーセムの共産主義寄り政策に反対し、1959年にカーセム首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に関与したサッダームは逮捕を逃れてシリア、ついでエジプトに逃れた。亡命中の欠席裁判により、サッダームは死刑宣告を受けている。

サッダームはエジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学んだ。帰国後の1968年には法学で学位を取得したといわれているが、カイロ大学には彼の在籍記録が存在しない。


権力の掌握
1963年にバース党がイラクで政権を奪取することに成功すると、サッダームは帰国してバース党の要職に就いた。しかし、この第一次バース党政権は短命に終わり、1964年、サッダームは逮捕投獄された。1966年に脱獄するが、この1960年代の間にサッダームはバース党の治安部門を掌握し、党内の実力者となっていった。

1968年、サッダームも貢献したバース党のクーデターにより党は再び政権を握ると、サッダームは革命指導評議会副議長に就任し、1973年からは国軍司令官を兼ねた。若きリーダーとして国民の期待を集めたサッダームの主導の元で第二次バース党政権は石油事業の国有化を断行し、石油収入を背景に農業の機械化、農地の分配、学校教育の強化など、近代化と社会福祉政策を推し進めた。しかし、世俗主義的な政策とアラブ系スンナ派ムスリムのイラク中央部出身者の重用は、イスラム知識人(ウラマー)、北部のバース人や南部のシーア派のような宗教派や少数派の不満を高めることにもなった。

一方でサッダームは政権内での地歩を固め、政敵を排除しつつ次期指導者としての地位を認めさせることに成功した。1979年、アフマド・ハサン・アル=バクル大統領の引退を受けて、大統領に就任する。


サッダーム・フセイン政権の24年
大統領に就任したサッダームは、その直後に開かれた党大会で、突如66人の人物を会場から連行させた。この内22人は死刑となり、国民に恐怖政治を印象付けさせた。その後もサッダームは反体制派の虐殺などを含む様々な手段で強硬に弾圧し、大統領の独裁体制を構築した。特に、元来世俗主義的アラブ民族主義の申し子であったサッダームは、イスラム教を掲げて政治に乗り出そうとする勢力を政権の脅威と見なして弾圧し、南部のシーア派地域を中心に高まりを見せていたイスラム主義(イスラム原理主義)の動きを弾圧、多くのシーア派法学者(イスラム聖職者)が逮捕、殺害、国外追放の処分を受けた。バース人の自治運動にも敵対的な姿勢で臨み、その活動を妨害した。更に議会でイラク国内の有力政治家ら21人をひとつの部屋に集め、彼に逆らう政治家を呼びつけては外に出して銃殺刑を申し渡し、即刻行われた処刑を指揮している映像も残されている。

反対派への粛清、それによる恐怖政治、バース人に対する弾圧から国外的にはアドルフ・ヒトラー、ベニト・ムッソリーニ、ヨシフ・スターリンに並ぶ独裁者として恐れられた。しかし、国内的には政治・経済が安定し、その統治に国民はやがて慣れ安住していった。教育面に関してはユニセフからの表彰も受けており、一部では、フセインの行った弾圧は現イスラム世界において宗教的価値観を取り除き国家を成長させるに必要なことであったとの意見もある。

また、サッダームは自分への個人崇拝も進め、イラク国内には彼の巨大な彫刻、像、肖像画やポスターが飾られるようになった。

イスラムを政治から遠ざけたサッダーム・フセイン政権においては、「世俗主義的な一国民族主義」が主導的なイデオロギーであった。この思想においては、イラク国民とはすなわち古代メソポタミアの民の子孫であり、サッダーム大統領はネブカドネザルやハンムラビになぞらえられる偉大な指導者と喧伝された。

ただし、アメリカとの対立姿勢を明確にした後は、キリスト教社会との対決を訴えるレトリックとしてイスラム世界の連帯を唱え、イラク国旗に「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」の文字が加えられる。

男尊女卑の強い中東において「名誉の殺人」が日常化していた中、この「名誉の殺人」を非難した指導者であることは、あまり知られていない。


イラン・イラク戦争と米国による支援
1979年にイラン・イスラム革命によってイランにシーア派のイスラム共和国体制が成立し、イラン政府は極端な反米活動を展開した。しかし、これは近代化(=政教分離)を目指す周辺のトルコ・サウジアラビアなどの世俗的な親米派アラブ国家の批難を浴び、米国も強硬に非難した。

中東の反米政権を潰す目論みを立てた米国のレーガン政権は1984年にイラクと国交を回復し、1988年に至るまでサッダーム・フセイン政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の兵器供給を行った。1983年12月19日にはレーガン政権から派遣されたラムズフェルドがイラクを訪問し、フセインと90分におよぶ会談を行っている。サッダーム・フセイン政権は1980年から1988年まで国境紛争でイランと戦い(イラン・イラク戦争)、この戦争のさなか1988年3月に、フセイン政権が国内に住むクルド人に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行った。当時の米国政府レーガン政権もこれを黙認した。

イラン・イラク戦争で米国がイラクを支援した理由には、イランが他の中東諸国にイスラム革命の輸出を行なえば、サウジアラビア・クウェート・UAEなどスンニ派が実権を握る宗教色の薄い世俗的な親米政権が危うくなり、石油の確保など米国の利益も危ぶまれる可能性があったからだとされる。

(以下はジョージ・ワシントン大学がアメリカの情報公開法に基づき政府に開示させた資料を元に書く)


ドナルド・ラムズフェルドアメリカはラムズフェルド(前国防長官)を特使としてイラクに派遣、全面的な支援を約束した。武器提供・石油パイプラインの建設などでイラン・イラク戦争の開戦を促した。イラクとアメリカの会談の際、話が化学兵器に及ぶと米国側のシュルツ国務長官は「我々は特に問題視していない」と答えた。そのため、イランと結びつく危険のある国内の反対勢力である少数民族のクルド人に対して化学兵器が使用されたとされる。また英国メディアによるとこの時期、イラクに向けて化学兵器・生物兵器の原料がアメリカ、イギリスから輸出された。


湾岸戦争
1988年に終結したイラン・イラク戦争は、1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、サッダームの関心を、イランに代わって、豊かな石油資源を持ち、以前からイラク人によってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへと向けさせた。

サッダームは1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言する。しかし、アメリカをはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年の湾岸戦争でアメリカを主力とする多国籍軍に敗退した。

敗戦による政権の隙をついて、国内の反体制シーア派が政権への反乱を起こした。しかしシーア派が期待したアメリカの支援は無く、サッダーム政権は鎮圧に成功する。この際反逆者に対しては虐殺を含む非常に苛烈な報復が行われた。これ以降さらなる強権政治により、反対勢力を押さえ込むことで、サッダーム政権はかえって安定化した。国内では秘密警察による反対派への弾圧、拷問、不当逮捕などが繰り返された。

湾岸戦争終結以降、イラクにはアメリカを主導とする国際世界から経済制裁が科せられ、経済的に窮乏に追い込まれた。イラク側の主張によれば、この時期に化学兵器等の大量破壊兵器は廃棄したという。


米国によるイラク攻撃と政権の崩壊
アメリカ同時多発テロ以降のアメリカはテロ組織アルカイダを支援しているとしてフセイン政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。もっともイラク攻撃自体は同時多発テロ以前から、湾岸戦争時国防長官だったチェイニー副大統領を中心とする政権内部のネオコンで既に議論されていたようである。

2002年1月、アメリカのブッシュ政権はイラクをイラン、北朝鮮と並ぶ「テロ支援国家」と名指しで批判した。2002年 - 2003年3月、イラクは国連の兵器査察を受けつつ、アメリカによる武力攻撃の危機にあった。

2003年3月20日にアメリカのブッシュ大統領は、イラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク攻撃を開始した。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍がこれに加わった。

4月9日、バグダードは陥落し、5月2日にはアメリカのブッシュ大統領が大規模戦闘終結宣言(開始から44日目、戦争終結ではない)を出した。


拘束と死刑

拘束直後のサッダームサッダーム・フセイン大統領は終結宣言以降も数ヶ月行方不明であったが、2003年12月14日、アメリカ軍はサッダームを拘束。アメリカ軍の取調べに対しては、「サッダーム・フセイン元大統領か?」という問いに対し、「サッダーム・フセイン(現)イラク大統領である」と答えている。

その後、イラク住民虐殺などの罪で起訴され、2005年10月19日にバグダードの特別法廷で初公判が開かれた。だが初公判の時に裁判長の質問に答えずにコーランを法廷中に唱えたり、名前を聞かれても名乗ることはなく、裁判そのものに対する拒否の意思をはっきりと示した。この裁判の翌日にサッダームの弁護士の1人が誘拐され殺害された。また11月にも弁護士の1人が殺害され1人が負傷し、サッダーム弁護団の警備強化をイラク政府に訴えている。2006年11月、フセインはイラク中部ドゥジャイルのイスラム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により死刑判決を言い渡された。フセインは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇」だとして非難した。

12月26日には控訴審でも死刑の判決が下り、12月29日には48時間以内に死刑執行が行われることが決まり、同日、イラク時間午前5時半ごろ(日本時間午前11時半ごろ)に米軍の収容所からイラクに引き渡され、手錠を掛けられたまま処刑室に入れられた。収容所を出るときはもがくようだったが、最後にはほとんど抵抗せず、執行の進行に従順であった。ルバイエ国家安全保障顧問によると、フセインは脅えており、恐怖が顔に表れていたという。また、自分に言い聞かせるように「こわがることはない」と話していた。 フセインはなぜか、コーランのコピーを所持しており、これをバンダルという人物に渡すことを求めていたという(但しこの人物が何者かは不明)。 そしてフセインは、首にロープを巻かれる前に「神は偉大なり。この国家は勝利するだろう。パレスチナはアラブのものだ」などと叫んだ。 イラク時間午前6時5分頃、首都バグダッドにて絞首による死刑が執行された。

処刑直前のシーンはテレビカメラに映され、全世界に放映された。但し、処刑シーンは公式には公開されておらず、処刑された後の遺体は白い布袋に包まれた状態で公開された。だが、携帯電話のカメラ機能を使い、同席した関係者によるものらしい処刑のビデオがインターネット上に出回っている。その映像には、絞首刑が執行され台から落ちるまでと処刑直後のフセインの姿が捉えられている。

処刑は当初、執行されないという観測もされていたが、判決後わずか4日という異例の展開となった。この背景にはマリキ首相を中心とするシーア派系現政権の大部分が速やかな処刑を望んだこと、またイラク情勢の早期打開をねらう米政権の思惑もあると思われる。だが死刑制度に反対するEU各国や人権団体などから非難の声が上がっているほか、イラク国内でもスンニ派の一部住民が死刑に対するデモ活動を行った他、爆弾テロも発生し70名余りが死亡した。また、この死刑に関して、かつて米国と蜜月の関係にあったフセインの口を封じるねらいもあったのではないかという意見も出ている。

どちらにせよ、イラク情勢がどのように変動するのかはまったく不明である。

なお、フセインの逮捕拘束や裁判判決がアメリカの国政選挙の直前というタイミングで行われていることから現政権の選挙対策に利用されているのではないのかという論調も存在する。

12月31日、フセインの遺体は息子でありアメリカ軍に殺害された長男ウダイと次男クサイが眠る、自身の出身地のイラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村の一族の墓所に埋葬された。



「硫黄島からの手紙」を観た後、フセインとアメリカのやってきた事を知ると、幾ら宗教は違っているとしても、「人が人を殺すのは良くない。ダメだと思う。それは戦争でも処刑でも」・・・僕はそう思うのだが。
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昔は南極「昭和基地」も「紅白歌合戦」を応援していた。

2007年01月01日 | インターネット
昔の「紅白」では昭和基地からの電報や生中継で、「昭和基地の周りは真っ白な氷に覆われています」→「白組の勝利」という図式が成り立っていた。

今の南極・昭和基地周辺を見たい方はこちら→http://polaris.nipr.ac.jp/~ccc/NC/modules/system/modules/menu/main.php?page_id=18&op=change_page
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大晦日の「ローソン」・・・「おせち」、あと2つ。

2007年01月01日 | 料理・飲み物・食べ物
大晦日の帰宅途中の「ローソン」。店内の煌々とした照明の奥にこんな張り紙が・・・確かに、「おせち」は残ると売れないもんね。
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「点天のぎょうざ」が「夫婦善哉」の隣にできた。

2007年01月01日 | 料理・飲み物・食べ物
買おうかなぁとも思ったが、ショーケースの「大阪トランプ」(900円)の写真を撮って我慢した。お正月に「ぎょうざ」を食べるのも乙なものだとは思ったが・・・東京にも「点天」は麻布十番にある。551なんば「蓬莱」の豚まんは東京に店が無い。通信販売で取り寄せる事はできるが・・・
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「水掛け不動尊」は苔むしていた。

2007年01月01日 | エッセイ・日記・意見
なんか「水掛け不動尊」にお参りすると、新しい年が来るんやなぁと思う。昔、ドラマのロケで使った事もあるが、やっぱり大阪の「匂い」がする。甲子園球場の蔦は刈り取られたが、「水掛け不動尊」の「苔」はそのままにしていて欲しい。
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もう一つの大阪名物はこれでしょ!

2007年01月01日 | エッセイ・日記・意見
「くいだおれ人形」は若者の被写体と化していた。「くいだおれ人形」に予備が9体あるのを御存知だろうか?なんかあった時でも、「くいだおれ人形」不滅なのだ。ちなみに「くいだおれ人形」を何かの銅像と思っていた人がいたと聞いた。「くいだおれ」という食堂ビルのシンボルが「くいだおれ人形」なのだ。言うまでもなく。
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大阪名物は大晦日も元気だった。

2007年01月01日 | エッセイ・日記・意見
大晦日の夜なのに、通称「ひっかけ橋」には大勢の人があふれている。今、大晦日、若者は街に出る時代。こんなに人が多いとワクワクする。
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