出版社/著者からの内容紹介
伝説の俳優、松田優作の死から20年----。
彼は本当に、『ブラック・レイン』を墓標に選んだのだろうか......。
出生の秘密から、苦悩の青春時代、そして語られざる最期の真相まで。
元妻にしてノンフィクション作家の著者が描き出す、迫真の評伝。
著者について
松田美智子(まつだ・みちこ)。山口県生まれ。同棲を経て、昭和50年に松田優作と結婚。長女をもうけた後、同56年に離婚。『天国のスープ』(文藝春秋)等の小説を執筆すると同時に、『福田和子はなぜ男を魅了するのか』(幻冬舎)等のノンフィクション作品を多数発表。
抜粋
「もとより、彼をおとしめるつもりも、過剰に褒めるつもりもない。描くのは松田優作という俳優の人生だが、なにも持たないというよりは、むしろ厄介な負を抱えて出発し、伝説化されるほど忘れ難い軌跡を残した一人の男の人生でもある」(本文「序章」より)
松田 優作(まつだ ゆうさく、1949年9月21日 - 1989年11月6日)は、山口県下関市生まれの日本の俳優。誕生年は1949年だが出生届の提出が遅れたため、戸籍上は1950年9月21日生まれになっている。
刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で人気を獲得。1970年代後半から角川映画や東映セントラルフィルム作品の主演作でアクションスターとして出発し、1980年代からは演技派としても認められるようになる。主演したドラマ『探偵物語』などで後進への影響も大きくファンの間での呼び名は「~さん」や「~様」、ニックネームでは無く、敬意を込めて敢えて「優作」と呼ばれている。1980年代を通じて最も重要な日本の映画俳優の1人と評価する意見もある。
経歴
1949年9月21日 - 山口県下関市に日本人の父と韓国人の母の元に産まれる。父親の違う2人の兄がおり、遊郭の家で私生児として母に育てられるという環境で育つ。
1967年 - 下関市立第一高等学校(現:山口県立下関中等教育学校)を2年で中退し、叔母が滞在する米国に渡り、弁護士を志してシーサイド大学付属高校に入学。
1968年 - 9月にアメリカの高校を中退し帰国。下関には戻らずに東京の兄の家に居候して東京都豊島区にある私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入する。
1969年 - 3月に高校を卒業。下関在住時代、地元が漁師町で気の荒い人が多く、当時から背の高かった松田は何かと喧嘩を仕掛けられることが多かったため、中学生から空手を習う[4]。帰国後、極真会館池袋本部道場に通い、極真空手2段。その経験は、後のアクションシーンに活かされる事になった。この年には、岸田森や草野大悟が演じていた劇団『六月劇場』へ裏方として出入りし始め、この両名からは少なからず影響を受けた。その2人ともに文学座出身であったことから、松田も文学座に入ることを考える。
1971年 - 3月に文学座の試験を受けるも不合格、ほかにも様々な劇団の試験を受け「マールイ」(金子信雄主宰)の演劇教室の生徒となる。ここで後に結婚する美智子と出会う。
1972年 - 3月、昨年に続いて文学座の試験に挑み、合格。文学座付属演技研究所十二期生となった。文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、2期先輩に桃井かおりがおり、翌年に1期後輩として中村雅俊が入ってくる。6月、役者に集中するため関東学院大学文学部中退。この頃、特撮ヒーロー物『突撃! ヒューマン!!』の主役オーディションを受けている。また1969年頃の無名時代に新宿(トリスバー「ロック」)でバーテンダーをしていたときに、客として来ていたひし美ゆり子(『ウルトラセブン』の友里アンヌ隊員役)や原田大二郎・村野武範らと知り合いになり親交を結んでいる。
松田が文学座に入ったことにより劇団での4期先輩の立場ともなった村野は、自身が主演したドラマ『飛び出せ!青春』のプロデューサーだった日本テレビの岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞いて松田を推薦した。このことが『太陽にほえろ!』への抜擢につながった。このあと『われら青春!』の主役を探していた岡田に、松田が後輩の中村雅俊を推薦している。なお岡田の著書によると村野が松田を推薦したのは松田の演技を評価したからではなく、村野が松田と麻雀をして負けたためだという。
1973年7月20日 - 人気刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事として出演開始、その活躍が話題となる。また、「ジーパン刑事編」最終回の殉職シーンで「何じゃこりゃあ!」(より正しくは「何じゃあこりゃああ!!」。この後にさらにセリフは続く)と絶叫する演技は大きな反響を呼び、多くの人を魅すると同時に、アクションスターへの階段を駆け上がるきっかけともなった。現在でもこのセリフは松田の代名詞として認識され、モノマネされる事も多々ある。なお『太陽に~』にはレギュラー出演以前にテスト出演し、マカロニ刑事(萩原健一)とも共演している。また岡田の著書によると当初岡田は松田を『太陽にほえろ!』ではなく別の青春ドラマに起用するつもりだったが、萩原が『太陽にほえろ!』の降板を申し入れてきたため、松田を萩原の後釜にすえたという。
1973年 - 東宝『狼の紋章』にてスクリーン・デビュー。
1974年 - 8月に『太陽にほえろ!』への出演終了。番組プロデューサーの岡田は松田の次期作として、中村雅俊とダブル主演のドラマ『俺たちの勲章』の準備を始めた。その間、10月4日スタートの『赤い迷路』に出演し、山口百恵、中野良子、宇津井健らと共演。このドラマでも最期に死んでしまう役を演じる。
1975年 - 3月、雑誌記者を殴ったことが表ざたになる。4月から『俺たちの勲章』放映開始、7月にはロケ先で喧嘩騒動を起こす。
1976年 - 1月、前年7月の喧嘩騒ぎでは示談が成立していたが、警察から出頭要請があり傷害容疑で逮捕。1週間で釈放となるが、新聞やテレビ等マスコミには大きくバッシングされることとなり、その後しばしの謹慎生活となる。
1976年 - 東映『暴力教室』で映画復帰。初の時代劇となる大映映画『ひとごろし』で主演。
1977年 - 角川映画『人間の証明』棟居刑事役で主演。刑事ドラマ『大都会 PARTⅡ』でテレビに本格復帰。
1978年 - 村川透監督の東映セントラルフィルム映画「遊戯シリーズ」第一作『最も危険な遊戯』主演。この映画でプロデューサーの黒沢満と出会う。(同年『殺人遊戯』翌年『処刑遊戯』)
1979年 - 村川透監督角川映画『蘇える金狼』主演。(翌年『野獣死すべし』)。10月からは初の単独主演ドラマ『探偵物語』開始、後年の再放送などで名作として高い人気を得る。この頃多くのアクション映画に主演し、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。
1980年 - 所属していた『六月劇場』から独立し、個人事務所「夢屋」を設立。
1981年 - 鈴木清順監督映画『陽炎座』出演、それまでと違い、アクションを求められない演技に葛藤を重ね、役者としての転機となる。また、黒沢満にマネージメント業務を依頼し、交際していた熊谷美由紀とともに、黒沢が代表を務めている映画制作会社『セントラル・アーツ』に所属することとなった。12月に妻・美智子と離婚届けを送付する。
1983年 - 森田芳光監督映画『家族ゲーム』で、それまでの"アクションスター"イメージを一新する役柄を演じる。長男誕生を期にかねてから同居していた熊谷美由紀(現・松田美由紀)と入籍する。
1986年 - 映画『ア・ホーマンス』制作途中で、監督との方針の違いに喧嘩となり監督が降板、松田自らがメガホンを取ることなり、これが初監督作品となる。しかし、興行的には不調だった。作品内容的には近未来的な状況設定から『ブレードランナー』との類似性を指摘する声が上がったが、松田はこの映画を観ていなかった。やくざが松葉杖を使っていたり、早口であったりと実験的で独特の映像感覚・心理描写・ストイックなアクション表現・音楽やロケーションなどにあふれるアジアテイストなど、独特の作風である。この作品は石橋凌、寺島進の映画デビュー作でもある。ここで役者に開眼した石橋は松田を師と仰ぎ、松田死去後に遺志を継ぐ決心で自らのバンドA.R.B.を解散し役者に専心した。
1988年 - 日本を舞台にしたアメリカ映画『ブラック・レイン』のオーディションが6月から始まり、日本で活躍する300人近い俳優の中から数度のオーディションを経て、9月5日の最終選考にてマイケル・ダグラスとの実演選考の結果、松田の出演が決定しハリウッドデビューの運びとなる。このころ、血尿が出るのが気にかかった為、9月27日に西窪病院(現在の武蔵野陽和病院)に入院、10日後に退院。検査の結果、松田自身が癌の告知を受けるが、松田はそれほど深刻には受け止めず、不治の病であるとは考えていなかった。この時点では美由紀夫人にも報告しておらず、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも口止めがされていた。10月31日から大阪で『ブラック・レイン』がクランクイン、12月16日から渡米してのロケ。1週間ほどで帰国し年末年始となるが、松田家での恒例の大忘年会の際には、周囲には風邪気味だと話していたが実際には癌の影響による高熱を出して点滴を打った状態であり、皆と楽しそうに会話を交わすものの、途中で自室に下がり姿を見せなくなるなど調子は万全でない様子であった。
1989年 - 年末年始後、1月6日から再び収録の為に渡米、ニューヨークへ。3月14日『ブラック・レイン』撮影終了。4月に西窪病院に再度入院、このとき美由紀夫人も松田が癌であることを知ったが、やはりそれが「不治の病」であるとの認識では受け取っていなかった。退院後にはアメリカでの移動の際に必要性を感じた自動車免許取得のため教習所に通い、6月に無事免許取得。夏からは旧知の仲である日本テレビの岡田プロデューサーが企画し、村川透が監督した秋のスペシャルドラマ『華麗なる追跡』の制作が始まったが、撮影中に腰痛の症状を訴え、撮影終了後の9月26日に三たび西窪病院に入院。この時には一人では歩けない状態であった。再検査の結果、癌が骨盤骨から脊髄の一番下まで転移していた。黒沢満はこのときに松田が癌である事を美由紀夫人の口から初めて聞いた。10月5日に病院から特別に許可を取って渋谷での『ブラック・レイン』舞台挨拶に立つはずだったが、会場には到着したものの腰痛がひどく、挨拶に参加できずに病院へと戻っていた。病状は好転せず、11月に入ると松田の盟友とも言える脚本家・丸山昇一にも黒沢の口から「覚悟しておくように」と深刻な状況である事が初めて伝えられた。11月6日午後6時45分に入院先の西窪病院で膀胱癌のため死去。享年41(40歳没)。尚、『ブラック・レイン』は全米興行収入で3週間のあいだ1位になる等の好反応により、松田のマネージメントを請負う黒沢の元にはハリウッドからショーン・コネリーが監督を務めロバート・デ・ニーロと共演する作品のオファーも来ていた。亡くなった翌日放送の『夜のヒットスタジオSUPER』では松田出演時のVTRが流れた後に司会の加賀まりこが涙を流して追悼のコメントを語った。
遺作となったドラマ『華麗なる追跡』は、「世界一速い女」フローレンス・ジョイナーと、「世界で一番速く走っている様に見せられる男」松田の共演、というコンセプトであったが、病魔の為に思うように走れなくなっていた松田は、脚本や演出に手を入れてかなりの改変を加えた。スタッフの中には内心腹を立てた者もいたが、松田の死後にその理由を覚り、後悔したという。法名は天心院釋優道。
人物
『太陽にほえろ!』で「ジーパン刑事」として出演時、たまたま撮影を見学に来ていた松田と同じ文学座所属の桃井かおりが、その体当たりの演技をみて『恐竜みたい』と評したところ、(決してアクション志向ではなかったため)激昂した松田が失踪し、撮影が中断される事件があったが、それを聞いた裕次郎は怒りもせず、「これでそれだけ怒ったアイツはいい役者になるぜ」と言ったという。『大都会 PARTII』における松田のブッキングは、石原裕次郎のラブコールによるものである。
関東学院大学在学中、大学文化祭においてニューヨークから来たアングラ劇団「ラ・ママ」が来演。この芝居を観て役者への道を決定づける。そして役者になるため、自分でも嫌っていた一重まぶたを二重まぶたにする整形手術を受ける。手術後、抜糸する金が無く自分で抜糸した。
『太陽にほえろ!』を降板する際、後任の勝野洋へなにかアドバイスをと求められて、「走る姿を研究しろ」と答えたという。実際、彼の演じるジーパン刑事が疾走するシーンは多くのファンを魅了し、「走る」事は同番組の基本コンセプトのひとつとして後々まで受け継がれた。
185センチの長身でタフなキャラクター・抜群の運動神経と長い手足を生かしたその動きはそれまでの俳優にはない独自のものであり、アクション・スタント シーンにスタントマンを使わず、日本のアクション俳優像を刷新した。萩原健一と並んで同時代を代表するスターである。
野性的なルックスや演技でアクションスターとして売れるが、芝居に対しては非常に勉強熱心で、個性派俳優として次第に役の幅を広げていった。強烈なカリスマ性をもつ俳優であり、松田の演じたキャラクターや、本人そのものをイメージした格好を真似る若者を産み、また同業者である後輩にも、彼のスタイルを踏襲した俳優(古尾谷雅人、又野誠治など)を産んだ。漫画『北斗の拳』の主人公ケンシロウも造形面で松田をモデルにしている。
普段のファッションには無頓着で、放っておいたら何を着だすか分からない程(美由紀夫人)だったと言う。近視で、普段掛けていた眼鏡も上部が黒縁の所謂オヤジ眼鏡だった。
性格は短気な傾向があり、興奮すると手が出ることも多かったそうである。ただ、その一方で自分の仲間を非常に大事にし、水谷豊、丸山昇一、山西道広、佐藤蛾次郎など優作と親交が深かった多数の友人が優作の伝記で彼の人となりを熱く語っている。
映画ミッドナイト・ランで主人公が彼の別居している子供に会いに行くシーンを見て、自分も同じ位の年の別居中の子供のことを想い出し泣いてしまったことがある(山口猛「松田優作 炎静かに」より)。
竹中直人が自分の物真似をレパートリーにしていると聞き、目の前でやってみせるよう要求したことがある。プライドが高く短気なところがある松田が怒らないかと周囲は心配したが、真剣に芸を披露する竹中の姿を黙って見た後「お前は面白いなぁ」と声をかけたという。
『野獣死すべし』の主演が決定した際、松田は「役作りをするから一人になる時間が欲しい」と関係者に頼み音信を絶っている。それから一月ほど経った後、松田は頬がこけ(更に際立たせるために奥歯を抜く徹底振りだった)貧相にさえ見えるほど体重を落とした姿で撮影所に現れた。原作のハードボイルドな雰囲気に相応しい屈強な主人公像をイメージしていた監督の村川透はこれに激怒し、「話が違う」と松田を激しく問い詰めた。やがて気の短い松田は村上と言い争いを始め、「ついこの間まで戦場にいた男が程よく太って健康的な姿であるわけが無い」と主張。結果として本作品の象徴ともいえる松田の鬼気迫る表情から出る迫真の演技が生まれることになり、後に村上も松田の(無断ではあったが)役作りを高く評価している。
国籍
父親は日本人であるが、韓国人の母親の私生児として生まれ、韓国籍を持つ。韓国名は金優作(キム・ウジャッ)。『太陽にほえろ!』の出演が決まった時に帰化を申請し、当時の法務大臣宛の帰化の動機書には「番組出演が決まり、全国に名前が韓国人と云う理由で誰かを失望させたくありません」と書き、知人には「自分の子供には二つの名前で苦しむ様な思いをさせたくない」と語っていたと云う。74年、日本籍となる。
家族
劇団仲間であり、後に『完全なる飼育』などの代表作をもつ作家・松田美智子と1975年9月21日に結婚し、長女を設けるも、女優・熊谷美由紀(現・松田美由紀)との不倫が原因で1981年12月24日に離婚。この際、子供のために離婚後も松田姓のままでいるように、との希望が優作から一筆したためられていた。熊谷美由紀とは、主演したドラマ『探偵物語』での共演で出会い、龍平出産を機に1983年に入籍。
美由紀との間に、順に長男・龍平(1983年5月9日生)、次男・翔太(1985年9月10日生)、長女・夕姫(優作逝去時一歳)がおり、長男・次男は現在俳優として活動している。
こんな映像も→
http://jp.youtube.com/watch?v=D4Ye7CTSnQY
松田優作・・・もうあんなオーラを持った俳優・・・いや、人間は現れないだろう。



