「戦争反対」 訴え続ける
沖縄「慰霊の日」 きょう78年
太平洋戦争末期の1945年、日本国内で最も凄惨(せいさん)を極めた地上戦が行われ、20万人以上が犠牲になった沖縄戦から78年がたちました。沖縄県では23日、犠牲者を追悼する「慰霊の日」を迎えます。(岡 素晴)
沖縄戦などで犠牲になった人の名前が軍人、民間人、出身地、国籍を問わず刻まれた糸満市摩文仁(まぶに)の「平和の礎(いしじ)」には、今年新たに365人の名前が追加。刻銘総数は24万2046人となりました。
沖縄戦をめぐって日本軍は、当初から「本土決戦」の時間稼ぎのための“捨て石”と位置づけ、持久戦を強いる戦略でした。米軍の沖縄上陸から約2カ月後、日本軍第32軍の司令部が置かれた首里の防衛拠点に崩壊の危機が迫ると、司令部は本島南部の摩文仁に撤退。しかし南部には、疎開しなかった住民が多数とどまり、首里や那覇、中部からの避難民も相当数いました。
そこに第32軍が押し寄せたため、住民、日本軍、米軍が混在する戦場となり、住民の命が次々に奪われました。推定9万4千人とされる一般の住民と、県出身の軍人・軍属を合わせて県民の4人に1人(12万2千人以上)が犠牲になりました。
日本軍の部隊がいた場所は米軍の攻撃対象にされたほか、日本軍が住民をスパイとみなし虐殺したり、住民を壕(ごう)から追い出したりするなど、多くの悲劇が相次ぎました。「軍隊は住民を守らない」という教訓が語り継がれているのはそのためです。
岸田政権が沖縄の島々の軍事要塞(ようさい)化を進める中で迎える78年目の「慰霊の日」。地獄さながらの戦場を生きのびた体験者たちは、軍備増強に強い危機感を抱き、「絶対に戦争はやってはいけない」と訴え続けています。