万が一、一部の政治的野望を持つ軍人がクーデターを起こし、一時的に政権獲得に成功したとしても、永久に政権を握り続けることはできないし、任期を終えた後には処罰を受けることになる。

2023-11-30 09:07:39 | 韓国を知ろう

90年代にもハナ会によるクーデター説…

全斗煥の反乱の種が取り除かれるまで

登録:2023-11-29 08:27 修正:2023-11-29 23:02
 
「ソウルの春」を踏みにじった陸軍少将全斗煥はどうやってクーデターに成功したのか
 
 
映画『ソウルの春』の中の全斗煥保安司令官の姿=プラスエムエンターテインメント提供//ハンギョレ新聞社
 
クォン・ヒョクチョルの見えない安保//ハンギョレ新聞社

 映画『ソウルの春』は全斗煥(チョン・ドゥファン)など新軍部が1979年12月12日主導した軍事反乱を題材にしている。12月12日夕方から13日未明までクーデターを起こした新軍部とこれを阻止しようとする鎮圧軍の9時間にわたる死闘を取り上げた映画だ。

 当時、保安司令官として陸軍少将に過ぎなかった全斗煥は、どうやってクーデターに成功したのだろうか。この疑問は「保安司令官」と「ハナ会」というキーワードでひも解くことができる。韓国軍内部では1960年代からクーデターを防ぐための装置が二重三重に設けられていた。朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領自身が1961年5・16軍事クーデターで政権に就いたため、クーデターの再発防止のための安全装置が張り巡らされていた。

 全斗煥が司令官を務めていた保安司令部の主な任務は対転覆任務だ。「ひっくり返す」という意味の「転覆」はクーデターを指す。対転覆任務は、簡単に言えば、クーデターを防ぐことだ。

 保安司令部の対転覆任務遂行は、脅威となる要素を見つけて取り除くのではなく、転覆の兆候を事前に捉えて取り除くか、転覆に繋がる要因が発生しうる条件を探し出して管理することで、脅威となる要素の発生自体の防止を目指す。保安司令部はクーデターの芽を摘むために、主要軍指揮官が公式・非公式に接触した人物と動向をきめ細かくチェックする。主要軍指揮官の有線・無線通話も24時間傍受する。

 朴正煕元大統領は、本当に信頼できる人を保安司令官に任命した。陸軍第1師団長を務めていた全斗煥は1979年3月、保安司令官に任命された。全斗煥大尉は1961年5・16軍事クーデター直後、朴正煕将軍に抜擢され国家再建最高会議議長室民願秘書官を務めるなど、早くから朴正煕の腹心だった。

 保安司令部のクーデター予防措置にもかかわらずクーデターが起きた場合、1979年当時ソウル忠武路(チュンムロ)に駐屯した首都警備司令部やソウル松坡区(ソンパグ)の特殊戦司令部がソウルに入ってきたクーデター軍を鎮圧する。これらの部隊を対転覆任務部隊とも呼ぶ。

 このようなクーデターの予防・鎮圧システムは1979年12月12日にもあったが、新軍部の軍事反乱を防ぐことはできなかった。クーデターを防ぐべき全斗煥保安司令官がクーデターの「首魁」だったからだ。『ソウルの春』では保安司令部が軍通信網を傍受し、鎮圧軍の動きをやすやすと把握し対応する。クーデター防止のために保安司令部に与えた軍通信網の傍受権限を、新軍部が逆にクーデターに悪用したのだ。猫に鰹節のようなものだった。

 対転覆部隊の任務を遂行すべき特殊戦司令部と首都防衛司令部の一部指揮官も軍事反乱に加担し、行動隊長を務めた。軍事反乱を鎮圧しようとしたチョン・ビョンジュ特戦司令官の部下であるパク・ヒド第1空輸特戦旅団長とチェ・セチャン第3空輸特戦旅団長、チャン・ギオ第5空輸特戦旅団長が反乱軍に加わり、直属の上官に銃口を向けた。

 
 
1979年12月12日クーデターに成功した全斗煥(前列左から5番目)、盧泰愚(4番目)ら新軍部の主軸勢力は、その翌日に保安司令部で勝利を祝う記念写真を撮った=『第5共和国前史』より//ハンギョレ新聞社

 彼らが正常な指揮系統と任務を無視してクーデターを起こすことができたのは、「ハナ会」という私組織で堅く結ばれていたからだ。1963年、全斗煥、チョン・ホヨン、盧泰愚(ノ・テウ)、キム・ボクトンなど陸軍士官学校11期生の主導で軍隊内の私組織ハナ会が結成された。1979年12・12軍事反乱当時、保安司令部、特戦司令部、首都警備政令部などの主要メンバーがハナ会所属だった。ハナ会はもともと朴正煕大統領の親衛組織を標ぼうし、朴大統領の庇護の下で勢力を拡大した。朴大統領とハナ会は宿主と寄生生物のような関係だった。ところが、1979年10月26日に朴大統領が死去すると、寄生生物だったハナ会が宿主の座を射止めようと12・12軍事反乱を起こしたのだ。

 金泳三(キム・ヨンサム)大統領は就任するやいなや、ハナ会を解体し始めた。金大統領は就任11日後の1993年3月8日、陸軍参謀総長と機務司令官を更迭し、ハナ会の粛正に着手するとともに、「栗谷不正事件」や人事不正、12・12軍事クーデター関係者を軍から追い出すなど、電光石火のようにハナ会関係者たちを片付けていった。このようなハナ会の清算過程は「政治的なパフォーマンス」とも皮肉られたが、金泳三政権の関係者たちは当時の状況では不可欠な措置だったと反論する。

 「1979年冬、全斗煥保安司令官を東海(トンヘ)警備司令官に左遷しようとする計画が漏れて12・12軍事反乱が起きた。この点を金泳三大統領は意識せざるを得なかった。就任初期、盧泰愚政権時代に任命された軍将官の中で、金大統領が信頼できる人はほとんどいなかった。ハナ会と妥協して同居するつもりがないなら、政権発足初期に息をつく暇もなく刀を突きつけるしかなかった」

 金泳三大統領も退任後、1999年8月、あるメディアとのインタビューで、ハナ会の解体に一か八かの覚悟で臨んだと述べ、「それを行っていなかったら、政権は存続できなかっただろうし、次の金大中(キム・デジュン)政権も誕生しなかっただろう。再びクーデターを起こしたはずだ」と述べた。

 金泳三政権が発足した1993年夏、情報機関や軍、大統領府などにはクーデター説が広がり始めた。閑職に追いやられたハナ会所属の一部の将軍たちが資金調達と兵力の動員などの役割を分担し、クーデターを準備しているという噂が流れたのだ。

 「ハナ会のクーデター謀議説」が広がったことを受け、韓国政府はクーデターを主導する可能性がある将軍とその周辺人物の電話を傍受するなど動向を密着監視し、クーデターの資金源を探るために銀行口座を隅々まで調べた。結局、うわさにとどまったが、クーデター説は1993年末まで幽霊のようにソウル上空を漂っていた。

 1990年代半ばまで、政局が不安になれば軍部が介入する可能性が取り上げたりもした。この頃、各種世論調査では、軍部が韓国政治で最も影響を及ぼす集団に挙げられていた。

 しかし、2000年以降、韓国社会でクーデターを起こすのは不可能だと思われている。何より社会が変わったからだ。韓国社会が政治・経済・社会的に多元化され成熟した。軍が主導的な役割を果たす時代は過ぎ去った。

 
 
1996年8月26日、12・12軍事反乱を主導したなどの疑いで、囚人服を着て1審宣告公判を待つ全斗煥と盧泰愚=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 万が一、一部の政治的野望を持つ軍人がクーデターを起こし、一時的に政権獲得に成功したとしても、永久に政権を握り続けることはできないし、任期を終えた後には処罰を受けることになる。金泳三政権時代、検察は12・12軍事反乱について「成功したクーデターは処罰できない」という見解を示した。これに対する国民の抵抗が激しくなり、国会は1995年、5・18光州民主化運動などに関する特別法を議決し、全斗煥と盧泰愚に対する起訴が行われた。1997年4月、最高裁の確定判決で全斗煥には無期懲役、盧泰愚には懲役17年が言い渡された。成功したクーデターも処罰されるという先例が作られた。ハナ会のように公式指揮系統まで破り周到にクーデターを企画し実行できる軍内の私組織はもう存在しない。

 金泳三政権以降、軍に対する文民統制の原則は大きな流れとして定着した。文民統制は、国民が選出した政治権力(大統領)と文民の官僚(国防長官)が安全保障政策を主導・決定し、安全保障専門家集団である軍は軍事作戦でこれを後押しする方式だ。民主軍隊は政治的中立を前提に軍本来の任務だけに専念する安全保障専門家集団だ。『ソウルの春』は民主軍隊とクーデターは両立できないという事実を改めて物語っている。

クォン・ヒョクチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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▽国連と何ら正式な関係のない米国の軍事組織であり、▽すでに国連総会で解体を決議して米国もそれに同意しており、▽国連の規定によって国連旗の使用ももはや合法的ではない、という「事実」が次第に広く知られ

2023-11-29 09:57:38 | 歴史に照らして整合性を!
 

朝鮮半島の平和と主権を揺さぶる「国連なき国連軍司令部」

登録:2023-11-27 06:31 修正:2023-11-27 12:07
 
[ハンギョレS]ムン・ジャンリョルの安保多焦点 
国連軍司令部の真実 

朝鮮戦争に参戦した16カ国の連合 
国連の名前「盗用」した米主導の軍事組織 
作戦統制権論議の過程で「再活性化」を主張 
日本が参加する地域統合司令部は「危険」
 
 
シン・ウォンシク国防部長官が14日、ソウル龍山区の国防部で開かれた韓・国連軍司令部加盟国の国防相会議で挨拶している=共同取材写真//ハンギョレ新聞社

 朝鮮半島の平和と安全保障に重要な意味を持つ2つの国際会議が今年11月に開かれた。一つは韓米定例安保協議会(SCM)の翌日である14日に開かれた、韓国・国連軍司令部加盟国国防相会議(以下「韓・国連軍司令部会議」)だ。韓国と米国からは国防相が出席し、残りの16カ国は主に駐韓大使が代理出席した。同会議では、朝鮮戦争以降の停戦態勢の維持に対する国連軍司令部の貢献を評価し、今後の役割と機能のさらなる強化を約束する共同声明を発表した。

 もう一つは、アジア太平洋経済協力会議(APEC)を機に米国のサンフランシスコで15日に開かれた米中首脳会談だ。両国首脳は、経済と安全保障問題で硬直した関係の中で数年間断絶していた軍事対話チャンネルを復元することで合意した。具体的に、両国の国防および軍のハイレベルの意思疎通を含む「軍対軍の対話」の制度化に合意したのだ。これによって台湾海峡と南シナ海で緊張の高まりや、輸出統制と貿易摩擦、核兵器競争など、難しく敏感な問題を“管理”していけるという期待が生まれた。

 一見すると、韓・国連軍司令部会議と米中首脳会談は、軍事安全保障的に相反する面がある。国連軍司令部の強化は、北朝鮮だけでなく中国も視野に入れたものと考えられるため、米中間の緊張緩和という首脳会談の趣旨に反する可能性があるからだ。実際、中国は韓・国連軍司令部会議について、外交部報道官を通じて「対決を引き起こし、緊張を高め、朝鮮半島情勢において火に油を注ぐようなもの」だと非難した。しかし、このような矛盾した行動は外交の世界では珍しくない。したがって、米国と中国がどうするかを見守るのも重要だが、韓国がどうするかを決めることがさらに重要だ。朝鮮半島の平和と安全保障がそうであり、最近議論になっている国連軍司令部の「再活性化」(revitalization)もそのような性格の問題だ。

戦時作戦統制権の移管に伴う権限の衝突

 一般大衆にとって「国連軍司令部」(United Nations Command)は漠然として「当たり前の存在」として認識されているようだ。当初から、国連という名称が「盗用」(または誤用)されたもので、▽国連と何ら正式な関係のない米国の軍事組織であり、▽すでに国連総会で解体を決議して米国もそれに同意しており、▽国連の規定によって国連旗の使用ももはや合法的ではない、という「事実」が次第に広く知られるようになった。一部で国連軍司令部を「幽霊司令部」と呼ぶのもそのためだ。

 国連軍司令部は1950年7月7日の国連安保理決議第84号により、米軍の将官が指揮する「統合司令部(Unified Command)」と呼ぶべきだが、米軍が恣意的に国連の名前を付けたものがそのまま使われている。停戦協定締結後、国連軍司令部は在韓米軍と韓国軍を指揮下に置いた作戦司令部であり、停戦体制を管理する最高軍事機構であった。さらに停戦協定を締結したその日、朝鮮戦争に参加した16カ国がワシントンに集まり、韓国に再び戦争状況が発生すれば再参戦するという決議を「ワシントン宣言」として発表しており、この宣言がこんにちの国連軍司令部加盟国会議の根拠となっている。

 国連軍司令部はこれまで二度の「存廃の危機」を経験した。一度目は1975年11月18日の国連総会で、2件の決議案(3390A/B)が採択された時だ。西側と共産側がそれぞれ、停戦協定を平和協定に切り替えることと外国軍の撤退などを含め、国連軍司令部の解体を求めた。当時、米国務長官のヘンリー・キッシンジャー氏は国連総会での演説で、1976年1月1日までに国連軍司令部を解体すると約束した。しかし、米国はこの約束を守らず、1978年11月に韓米連合司令部を創設して作戦機能を専門に担当するようにし、国連軍司令部は存置する一方、その機能を停戦協定の管理と有事の際の戦力の提供に制限した。韓国軍に対する戦時作戦統制権は形式的に国連軍司令官から韓米連合軍司令官に移管されたが、両司令官を同一人物が兼ねるため、内容的には変化がなかった。

 二度目の危機は、韓国軍に作戦統制権を移管した後の国連軍司令部の地位と機能をめぐる論議であり、これは現在進行形だ。韓国軍が作戦統制権を行使するようになると、国連軍司令官の権限は在韓米軍と戦時増員多国籍軍に関連したものに限られる。この場合、戦時に韓国軍と米軍最高司令官の権限の関係が曖昧になる。不幸にも盧泰愚(ノ・テウ)政権から現在まで、作戦統制権移管をめぐる議論でこの重大な問題はまともに取り上げられなかった。特に文在寅(ムン・ジェイン)政権は作戦統制権の「移管」を、現在の連合軍司令部体制を維持したまま、司令官だけを韓国軍の将官に変更し、「再定義」することで米国と合意した。そうなれば、連合軍司令部副司令官である米軍の四つ星将軍(大将に相当)が国連軍司令官としての権限を行使する時、指揮権の「衝突」が起きるのは火を見るより明らかだ。

国連軍司令部、解体または統合すべき

 米国(軍)はこの問題を当然認識しているだろう。だからこそ、国連軍司令部の再活性化の概念を持ち出した。その始まりは2000年代初めまで遡るが、本格的に進めたのは2014年からだ。韓国軍への作戦統制権移管の期限が一度延期され、2015年に決まったため、備えが必要だったのだろう。目的は国連軍司令部を存続させることであり、主な内容は参謀組織を独立化し拡大しながら、それによって機能と役割を強化することだ。在韓米軍が兼職していた国連軍司令部副司令官をカナダや英国などの将軍級に任命し、参謀部も多国籍で増やし、現在100人近くになる。

 国連軍司令部の存在理由は停戦体制の管理と戦時増員戦力の提供にあるため、朝鮮半島の平和と韓国の軍事主権を犠牲にすることで維持される。非武装地帯と軍事境界線(休戦ライン)の通過に対する恣意的統制で、南北交流協力にブレーキをかけ、一国の大統領候補(尹錫悦候補の2021年12月陸軍3師団観測所訪問)まで停戦協定違反で調査すると脅しをかけた国連軍司令部だ。韓国軍に対する作戦統制権も、軍事組織と体系がどのように変わっても、ほぼ永久的に保有することを目指している。

 国連軍司令部が戦闘司令部に生まれ変わるという懸念があるが、短期間でそうなる可能性は低い。韓米両国が公に否定するだけでなく、現行の作戦統制権と連合軍司令部体系が維持される限り、その必要性もない。しかし平沢(ピョンテク)に“拡張開業”した国連軍司令部が、日本に位置する7つの国連軍司令部の後方基地をさらに緊密に統合し、国連軍司令部加盟国のより積極的な参加を導き、朝鮮半島に堅固な地域統合司令部を構成する可能性は残っている。さらに国連軍司令部加盟国に日本が参加すれば、韓米日3カ国の類似同盟は国連軍司令部という外皮をもう一重まとった、政治軍事的に「完全かつ不可逆な」体系を整えることになるだろう。

 朝鮮半島分断の固着化と軍事的緊張の高まり、そして対中対決構図の中で、韓国の軍事主権にも「不完全で回復し難い」状態が続くだろう。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権はこの方向が正しいと判断し、先頭に立っているものとみられる。しかし、「カエサルのものはカエサルに」返さなければならない。韓国が平和と主権レベルで軍事主権と停戦体制の管轄権をとり戻し、米国のものである国連軍司令部は名実共に在韓米軍または在日米軍と統合するか、解体されなければならない。

ムン・ジャンリョル|元国防大学教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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北朝鮮軍は、9・19南北軍事合意により撤収した非武装地帯(DMZ)内の最前線監視警戒所(GP)11カ所を復元し、兵力を投入したうえ、無反動砲など重火器を搬入した。韓国軍当局が27日に明らかにした。

2023-11-28 13:47:55 | 韓国を知ろう
 

北朝鮮、軍事合意により爆破した監視警戒所を復元

・再武装…韓国国防部「即刻対応」

登録:2023-11-28 06:07 修正:2023-11-28 08:02
 
北朝鮮、非武装地帯GP11カ所を武装解除・爆破で無くしたが 
観測所など構造物を新たに設置…重火器搬入するなど再武装 
 
 
北朝鮮軍が南北軍事合意で撤収した東部戦線最前線の監視警戒所(GP)の上段に観測所とみられる木造の構造物を作り、迷彩柄に塗っている。韓国軍当局が前方監視装備で撮影したもの=韓国国防部提供//ハンギョレ新聞社

 北朝鮮軍は、9・19南北軍事合意により撤収した非武装地帯(DMZ)内の最前線監視警戒所(GP)11カ所を復元し、兵力を投入したうえ、無反動砲など重火器を搬入した。韓国軍当局が27日に明らかにした。これは北朝鮮の軍事偵察衛星の打ち上げ(21日)に対抗し、韓国が9・19軍事合意のうち飛行禁止区域の無効化(22日)を宣言したことを受け、北朝鮮が軍事境界線(MDL)地域に武力・軍事装備を配置する方針(23日)を明らかにしたことに伴う後続措置だ。尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領は北朝鮮の動向について報告を受け、「確固たる軍事態勢を維持せよ」と指示し、軍は「対応措置」を予告した。9・19軍事合意を無効化する南北の可視的行動と対応が重なり、朝鮮半島の緊張がより一層高まっている。

 軍関係者は同日、記者団に「北朝鮮軍が9・19軍事合意によって撤収した非武装地帯内の11カ所のGPに観測所(OP)と推定される構造物を作っていることが全地域で確認された。24日からここに重火器を搬入し、昼・夜間の警戒勤務にあたるなどの活動も現れている」と述べた。2018年の9・19軍事合意で、南北はDMZにおけるすべてのGPの完全撤収に合意し、まず機関銃と小銃の射程圏内にある南北間距離1キロメートル以内の両側のGP11カ所を試験的に撤収した。DMZには北朝鮮の監視警戒所が約150カ所あると推定されるが、2018年11月、北朝鮮は試験撤収対象のGP11カ所のうち保存GP(南北合意によって装備と兵力は撤収するが、原型は保存)を除いた10カ所のGPを爆破で破壊した。

 軍が公開した写真には、北朝鮮軍の兵力が破壊されたGPの上段に観測所と推定される木造の構造物を作った場面▽GP破壊後に兵力と装備が撤収した周辺の警戒陣地に、無反動砲と推定される重火器を配置する場面▽北朝鮮軍が警戒陣地で夜間警戒勤務に行う場面などが収められている。これらの写真に写っているのは、9・19軍事合意後に爆破された東部戦線の北朝鮮軍のGPのうちの一つだという。

 尹大統領は英国とフランス歴訪後の最初の日程として、同日午前、シン・ウォンシク国防部長官とキム・ミョンス合同参謀本部議長から安全保障状況について報告を受け、「北朝鮮の動向を徹底的に監視しながら、韓国国民が安心できるよう確固たる軍事態勢を維持せよ」と指示した。

 国防部は「軍は北朝鮮の復元措置に対する対応措置を直ちに履行する万全の準備を整えていく」と明らかにした。キム・ミョンス議長も記者団に対し、「相応の措置を取る」と答え、DMZで韓国軍のGPを復元する可能性を示唆した。

クォン・ヒョクチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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 A君はプレゼントを渡した後、地区隊前の警察官たちに感謝の気持ちを伝えるように、腰を「90度」折ってあいさつした。

2023-11-27 12:06:51 | 韓国を知ろう
 

警察官を驚かせた韓国の小学生の紙袋…「1年分の小遣い貯めた」

登録:2023-11-27 08:20 修正:2023-11-27 09:49
 
 
ある小学生が1年間貯めた小遣いで買ったおやつを警察官に渡す様子=警察庁のユーチューブチャンネルより//ハンギョレ新聞社

 小学校4年生の子どもが、1年間貯めた小遣いでおやつを買い、警察地区隊に渡したことが話題になっている。

 26日に警察庁公式ユーチューブチャンネルが公開した動画を見ると、9月14日に京畿道のある警察地区隊を、小学校4年生のA君とA君の母親が、各々両手に紙袋と飲み物を持って訪ねてきた。A君は地区隊の玄関にいた警察官に紙袋を渡し、中身を確認した警察官は驚いた表情を浮かべた。

 
 
ある小学生が1年分の小遣いでおやつを買って、京畿道龍仁市のある地区隊に渡した=警察庁のユーチューブチャンネルより//ハンギョレ新聞社

 紙袋の中には菓子、餅、飲み物、A君の手紙が入っていた。手紙にはきちんとした字で「私は小学校4年生です。私が1年間お小遣いを少しずつ貯めて、普段苦労しているおまわりさんたちに小さなプレゼントを差し上げることになりました。おまわりさん、いつもありがとうございます。これからも私たちの町を守ってください」と書かれていた。

 
 
ある小学生が1年分の小遣いで買ったおやつを手紙とともに京畿道龍仁市のある地区隊に渡した=警察庁のユーチューブチャンネルより//ハンギョレ新聞社

 A君はプレゼントを渡した後、地区隊前の警察官たちに感謝の気持ちを伝えるように、腰を「90度」折ってあいさつした。突然のプレゼントとあいさつに戸惑っていた警察官たちは、A君と一緒に地区隊前で記念写真を撮った。

 動画には、寒い冬に心が温まるシーンだとして、A君を称賛するコメントが多く寄せられている。「偉い子だ。警察官のみなさん、いつもお疲れ様」、「心温まる映像だ」、「私も町内の地区隊のおまわりさんたちに缶コーヒーを買ってさしあげた」などの反応が見られた。

 
 
ある小学生が1年分の小遣いでおやつを買って警察官に渡し、あいさつする様子=警察庁のユーチューブチャンネルより//ハンギョレ新聞社
イ・スンジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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岩倉市長は7日午後5時30分頃、仁川空港第2旅客ターミナルの入国審査場で待機している間に突然倒れた。

2023-11-26 08:27:55 | 韓国を知ろう
 

仁川空港の入国審査場で一時心停止した日本の市長…無事に帰国

登録:2023-11-22 05:50 修正:2023-11-22 06:42

 

広報のため訪れた韓国…空港職員の応急処置で危機を脱す 
 
 
仁荷大学病院の医療スタッフと日本の北海道苫小牧市の岩倉博文市長=仁荷大学病院提供//ハンギョレ新聞社

 仁川国際空港の入国審査場で一時心停止で倒れ、空港職員の応急処置で危機を乗り越えた後、韓国の病院で治療を受けた日本の地方自治体の市長が回復して退院し、日本に帰国した。

 21日の仁荷大学病院の説明とNHKの報道を総合すると、日本の北海道苫小牧市の岩倉博文市長(73)は17日に仁荷大学病院を退院し、新千歳空港を経て日本に帰国した。帰国した岩倉市長は救急車に乗って現地の大学病院に移送され、今後、心臓の除細動器の埋め込み手術を受ける予定だ。

 岩倉市長は7日午後5時30分頃、仁川空港第2旅客ターミナルの入国審査場で待機している間に突然倒れた。2006年から苫小牧市長を務めている岩倉市長は7日から10日まで、苫小牧港の広報のために韓国に滞在する予定だった。

 仁川空港の出入国・外国人庁の職員と空港救急隊が心肺蘇生術(CPR)で応急処置を行い、空港内の唯一の医療機関である仁川空港国際医療センターに移され気管挿管などを実施すると、徐々に意識が戻って来た。その後岩倉市長は、仁荷大学病院の心血管系集中治療室で入院治療を受けた。

 NHKは、岩倉市長が11日には会話などの意思疎通ができるまで回復したと報じた。退院前日の16日には、病院スタッフが回復を祝うプレゼントを渡す際に笑って冗談を言えるくらいに回復したと、仁荷大学病院は明らかにした。

 ただし、岩倉市長がいつ公務に復帰するかは未定だ。市長代理を担当する苫小牧市の木村淳副市長は「岩倉市長が無事帰国したことに、ひとまず安堵しております。まずは、治療に専念していただきたいと思います」と明らかにした。

イ・ユジン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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