「言語の天才・金壽卿の人生を通じて、
日本に『離散家族』を知ってもらいたい」
『北に渡った言語学者:金壽卿1918-2000』(人文書院)。人類学者である同志社大学社会学部の板垣竜太教授(49)が7月に日本で出版した、言語学者の故・金壽卿(キム・スギョン)(1918~2000)氏の評伝だ。
日本の植民地時代に京城帝国大学法文学部哲学科を卒業し、東京帝国大学大学院で言語学を学んだ金壽卿は、「朝鮮の言語の天才」と呼ばれた。江原道通川(トンチョン)出身の彼が、植民地支配からの解放までに習得した外国語は、ギリシャ語、ラテン語、サンスクリット、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、デンマーク語、日本語、中国語、モンゴル語、満洲語の15言語にもなる。「金壽卿が金日成大学の在職時に、フランス語の原書を直読直解して授業したことが、今でも同大学での伝説的な講義になっています。合わせて7言語でそのまま原書を読みながら教えることができたと言われています。京城帝国大学で金壽卿を教えた日本人言語学者の小林英夫は、解放後に日本人の弟子たちに『京城帝大には金壽卿という言語の天才がいた。君達はなぜ彼ほどできないのか』と鼓舞したといいます」
24日にビデオ会議アプリのZOOMを通じて会った板垣教授の話だ。彼は韓国のマダン劇(広場で演じられる劇)に興味を持ち、東京大学4年生の時から学び始めたという流暢な韓国語でインタビューに応じた。
韓国での翻訳出版(青い歴史出版社)も予定されているこの評伝は、金壽卿の人生と言語学者としての成就の両方を取りあげた。「ある若い研究者が、本を読んであまりに号泣して鼻血が出たと言っていました。本を読んで泣いたという読者が意外に多いです。『ハングルの誕生』の著者の野間秀樹教授もSNSで『すごい本』だとほめてくれました」
解放後、ソウル大学商学部の前身である京城経済専門学校の教授だった金壽卿は、1946年8月に38度線を越えて北朝鮮に向かった。その年の9月に開校した金日成大学の創設要員として働いてほしいという北朝鮮の招請に応じたのだ。金日成大学朝鮮語学科教授の金壽卿は、翌年に金日成大学のキム・ドゥボン総長らと共に朝鮮語文研究会を作り、北朝鮮政権初期の言語政策の基礎を築いた。同じ漢字は同じ形態で表記するという「形態主義」の原則を掲げ、「頭音法則」を破棄し漢字を撤廃するなどの北朝鮮の「言語革命」に深く関与した。
朝鮮戦争後の分断の悲劇を全身で受けた金壽卿とその家族の苦痛も、本の一つの軸だ。戦争が勃発し、金日成大学の教員で構成された短期宣撫工作団の一員として南に向かった金壽卿が、北朝鮮に向かう過程で妻と2男2女の子どもたちと別れ別れになったのだ。家長と離れ、南側の土地に留まった子供4人のうち3人と妻(故・イ・ナムジェ)は、金壽卿を探すのに役に立つだろうという判断で、1970年代にカナダに移住した。故人となった長女のヘジャさんは、国外で父親の消息を調べるために、あえて外国進出がしやすい看護学を専攻して家族が移住できるようにし、1948年に平壌(ピョンヤン)で生まれた次女のヘヨンさんは、父親の消息を少しでも得るために、トロント大学で一歩遅れて言語学を勉強した。カナダのビザを取れなかった次男(テソンさん)は、代わりにドイツでドイツ語学の研究で博士号を取得し、釜山大学で30年近くドイツ語を教えた。
カナダの家族はトロントを訪れた延辺大学の教授の助けで、1986年から金壽卿と手紙の交換を行い、1988年にはついにヘヨンさんが、北京大学で開かれた朝鮮学学術大会で父親と劇的に会えた。梨花女子専門学校の出身でイ・ヒスン教授の愛弟子だった妻も、夫が亡くなる2年前の1998年に平壌で再会し、「半世紀の別れの恨」を解いた。
東京大学の学部で文化人類学を学んだ板垣教授は、4年生だった1994年に偶然、韓国のマダン劇の台本集を読み、韓国研究を決心した。母校で修士課程を終えた後、21カ月間、慶尚北道の尚州(サンジュ)に滞在し、この地域社会が日帝強占期(日本による植民地支配)の間にどのような変化を遂げたのかを研究した。
「慶北尚州の植民地経験研究」で博士号を取得した板垣教授は、自分が金壽卿の評伝を書いたのは偶然が作用したのだと明らかにした。「博士論文を執筆した2002年に小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問し、日本社会に北朝鮮を悪魔化する流れが生じました。多くの知識人もそのような攻撃に体制順応的に加勢したのです。過去の植民地主義者のように北朝鮮を批判する声も出たのです。これを見て、他の形で北朝鮮を研究できる方法がないかを考えました」
「北に渡った言語学者:金壽卿」評伝が出版
京城帝国大学時代に15の言語に精通したことで有名
1946年、金日成大学創設の要員として「越北」
南側の家族はカナダに移住して「再会」に成功
2013年に日本で最初の「金壽卿学術大会」
北朝鮮地域の研究の代わりに8年かけて評伝を執筆
他の人とは異なる北朝鮮研究のテーマの一つとして「咸興(ハムフン)の1945年前後の地域史」などを考えついた彼は、ハーバード大学燕京研究所の訪問学者だった2010年3月、トロントで偶然にもヘヨンさんに会い、言語学者の金壽卿についての話を聞いた。「トロントで北朝鮮から韓国に渡った北側出身の韓人たちから、日帝時代の北朝鮮地域の宣教資料がたくさんあると聞き、夕食の席でキム先生に会いました。その日のホテルに戻る車中で金壽卿についての多くの話を聞きました。そして、忘れていた2年後に、同志社大学の研究会後の打ち上げで、同じ大学の同僚である言語学者のコ・ヨンジン教授が金壽卿先生の話をしたのです。北朝鮮言語政策の基礎を築いた人だということで」
彼とコ教授は、2013年に韓中日の学者を呼び、同志社大学で言語学者金壽卿に光を当てる学術大会を開いた。その席にはヘヨンさんとテソンさんも参加し、「父、金壽卿」という文章を発表した。
彼は評伝の完成には2013年からまる8年を要したと語った。なぜ評伝を書いたのかについて尋ねた。「初めは、北朝鮮地域史を研究しようとしましたが、フィールドワークは容易ではありませんでした。資料は多く集めましたが中心軸がなく、非常に迷いました。そうしているうちに、金壽卿という存在を知ってからは、人物を中心に20世紀の歴史を再び書くことができるという考えが浮かびました。金壽卿を中心に広い世界史を書くことができると考えたのです。この人の人生には、冷戦とソシュール構造主義言語学、離散家族、北朝鮮政治がすべて含まれています」
言語学者としての金壽卿の最大の業績は何か。「北朝鮮の朝鮮語学を切り開いた人です。研究者が研究しなければならない部分を直接作ったということが最も重要です。10以上の言語を知っており、西欧の言語学の本をすべて原書で読み、京城帝国大学でドイツ哲学者のヘーゲルをテーマに卒業論文を書きました。西欧の学問の伝統を正しく学んだ人です。学問とは何であるのか、そして、その学問のうちの言語学、言語学のうちの朝鮮語学が何であるのかを正しく知り、そのような前提のもとで朝鮮語学を作りました。他の言語学者には難しいことでした」
もしかして著書で新たに明らかにした事実があるのかを尋ねた。「北朝鮮は1948年から1月15日をハングルの日(訓民正音記念日)として記念しています(韓国では10月9日をハングルの日としている)。実は、1947年10月9日付の北朝鮮の党機関誌『労働新聞』に、ハングルの日の議論についての金壽卿の文章が掲載されました。金壽卿はその論文で、10月9日は1446年に頒布した訓民正音解例本の出版記念日に過ぎず、訓民正音を創製した日は実録に出ている1443年12月(旧暦)が正しいと主張しました。北朝鮮のハングルの日の変更に金壽卿が深く関与したことを推察できる文章です。すでに定着している慣行であっても、科学的な検討を通じて変えられるのであれば変えるという科学的社会主義に傾いていた当時の北朝鮮の社会の姿を示す文章で、なおさら興味深かったです」。彼は金壽卿の論文を読み、多くの面白さを感じたと語りながら、理由をこのように明らかにした。「金壽卿は朝鮮語学を基礎から作った人で、自らその学問の前提を作らなければならなかったのです。彼の開拓者的な論文には、直接は書きはしなくても、行間からソシュール構造主義言語学とマルクス主義を読みとれます。文章も非常に論理的です」
彼は評伝を書いたのは、「政治指導者や軍隊だけで表象される北朝鮮に、言語の天才であり離散家族である金壽卿のような人もいることを、日本人に知ってもらおうという意図もある」と明らかにした。「韓国の人々には北朝鮮は他者であるわけにはいきませんが、日本はそうではありません。例えば、離散家族は日本人の目にはあまり入ってこない問題です。日本人が評伝を読み、北朝鮮の人々と離散家族の本当の心を読み取ってほしいです」
計画を尋ねると、彼は「北朝鮮の美術、建築などの文化史を共同研究している」と明らかにした。最近、北朝鮮の学術刊行物などを電子化した「コリア文献データベース」(KBDB)も構築し公開した。