昨日の話題に関連したことであるが、現在の高齢化社会において、「終末期医療」や「安楽死」、「尊厳死」の問題は、避けては通れない問題ではないだろうか。そこで「尊厳死」について、知りうることを書いてみた。
東京都文京区本郷に本部を置く「日本尊厳死協会」は、1976年1月に設立され、治る見込みのない病気にかかり、死期が迫ったときに「尊厳死の宣言書」(リビング・ウイル)を医師に提示して、人間らしく安らかに、自然な死をとげる権利を確立する運動を展開している。また、現在23ヶ国の38団体が加盟して「死の権利協会世界連合」を結成し、2年ごとに国際会議を開いて各国との情報を交換し合い、それぞれの国民性に合った運動を進めており、また国連の民間団体(NGO)として認められるように働きかけている。
リビング・ウイルとは、自然な死をもとめるために自発的意思で明示した「生前発行の遺言書」で、その主な内容は、●不治かつ末期になった場合、無意味な延命措置を拒否する ●苦痛を最大限に和らげる治療をしてほしい ●植物状態に陥った場合、生命維持措置はとりやめてください―というものである。
私は、1992年始め頃に、NHKで放送された特集番組で「尊厳死」について深く関心を持ち、同年4月1日に「日本尊厳死協会」へ入会した。この尊厳死については、現在、法制化を目指した活動がされており、嘆願書提出のため多くの署名が集められている。また、国会議員の中にもこの運動に尽力されている人も少なくないと聞くが、まだまだ日本では一般的に理解されていないこともあって、法制化に向けての道は遠いようである。しかし、こういう問題が起きると、もはや論議されるべき時期が遅きに失したようにさえ思える。
アメリカのオレゴン州は、全米50州の中でただ一つ「尊厳死法」を持つ州である。1997年、州の住民投票賛成60%で尊厳死法が可決された。オレゴンの「尊厳死」は日本で論議になっている尊厳死とは概念が異なり、「人間としての尊厳を保ったまま、安らかな死を迎える」という、求めるものは同じだが、延命のみを目的とした維持装置を外すだけではない。オレゴンの場合は、適用申請に始まるプロセスのすべにて患者本人がかかわり、最終的に患者が致死性の薬物を服用するという、ある意味での極めて「積極的」な行為である。
もちろん、医師の診断と助言、家族の支援が大前提となるが、眼目は「患者が自分の終末をコントロールする」ことにある。法律の適用には厳格な要件が伴う。書面での申請、二度にわたる口頭での確認、余命が6ヶ月以内という二人の医師の診断、患者が判断力を有するという診断―などが、すべてクリアされて医師が致死性の鎮痛剤を処方し、それを服用するのは患者本人である。
法律乱用を恐れる声は当然あり、論法の違いで最高裁に提訴されているともいう。しかし、患者が自分の終末をコントロールし、致死性の鎮痛剤で安らかに死ねるということは、人間の尊厳を認めた最善の手段であると思う。できれば私もそういう選択がしたいと切に思うが、いかにもアメリカ的で、到底日本では無理だろう。リビング・ウイルのカードは、今では一種のお守りのようなものになっている。
東京都文京区本郷に本部を置く「日本尊厳死協会」は、1976年1月に設立され、治る見込みのない病気にかかり、死期が迫ったときに「尊厳死の宣言書」(リビング・ウイル)を医師に提示して、人間らしく安らかに、自然な死をとげる権利を確立する運動を展開している。また、現在23ヶ国の38団体が加盟して「死の権利協会世界連合」を結成し、2年ごとに国際会議を開いて各国との情報を交換し合い、それぞれの国民性に合った運動を進めており、また国連の民間団体(NGO)として認められるように働きかけている。
リビング・ウイルとは、自然な死をもとめるために自発的意思で明示した「生前発行の遺言書」で、その主な内容は、●不治かつ末期になった場合、無意味な延命措置を拒否する ●苦痛を最大限に和らげる治療をしてほしい ●植物状態に陥った場合、生命維持措置はとりやめてください―というものである。
私は、1992年始め頃に、NHKで放送された特集番組で「尊厳死」について深く関心を持ち、同年4月1日に「日本尊厳死協会」へ入会した。この尊厳死については、現在、法制化を目指した活動がされており、嘆願書提出のため多くの署名が集められている。また、国会議員の中にもこの運動に尽力されている人も少なくないと聞くが、まだまだ日本では一般的に理解されていないこともあって、法制化に向けての道は遠いようである。しかし、こういう問題が起きると、もはや論議されるべき時期が遅きに失したようにさえ思える。
アメリカのオレゴン州は、全米50州の中でただ一つ「尊厳死法」を持つ州である。1997年、州の住民投票賛成60%で尊厳死法が可決された。オレゴンの「尊厳死」は日本で論議になっている尊厳死とは概念が異なり、「人間としての尊厳を保ったまま、安らかな死を迎える」という、求めるものは同じだが、延命のみを目的とした維持装置を外すだけではない。オレゴンの場合は、適用申請に始まるプロセスのすべにて患者本人がかかわり、最終的に患者が致死性の薬物を服用するという、ある意味での極めて「積極的」な行為である。
もちろん、医師の診断と助言、家族の支援が大前提となるが、眼目は「患者が自分の終末をコントロールする」ことにある。法律の適用には厳格な要件が伴う。書面での申請、二度にわたる口頭での確認、余命が6ヶ月以内という二人の医師の診断、患者が判断力を有するという診断―などが、すべてクリアされて医師が致死性の鎮痛剤を処方し、それを服用するのは患者本人である。
法律乱用を恐れる声は当然あり、論法の違いで最高裁に提訴されているともいう。しかし、患者が自分の終末をコントロールし、致死性の鎮痛剤で安らかに死ねるということは、人間の尊厳を認めた最善の手段であると思う。できれば私もそういう選択がしたいと切に思うが、いかにもアメリカ的で、到底日本では無理だろう。リビング・ウイルのカードは、今では一種のお守りのようなものになっている。
主治医と相談して延命治療はやめるという文言を書いたものを医者に預けておくとか、「家族に私がもし倒れたらこれを見て」と時には家族と死生観というものを話し合っておくのもよいと思う。
私も尊厳死を認めてほしい。お墓は作らない。主人と同じ墓もいやです。なぜって、すごく田舎で義父母(まだ生きてます)、祖父母、代々の墓があるのですが、誰もおそらく行けなくなると思う。
海に散骨してほしいと思ってます。
私はお葬式など一切拒否して、散骨は海だと魚が死ぬかもしれないし、山は木が枯れるかも?で、仕方なくお墓にでも。
いずれが安住の地になるのかな。まあ死んだあとは分からないのだから、どうでもいいやって。
若い人たちがこういう問題に関心を持ってくれることはうれしいことです。
老いた者、病む者の気持ちは当人でなければ、老いてみなければ理解できないことです。
「尊厳死」というのは人としての尊厳を失う前に自分の意思で死を選ぶことですが、日本ではあくまでも自然死が前提になっています。
この選択は人それぞれの考え方の違いもあるでしょうが、決して痛みへの恐れだけでは選択できることではないと思います。
自律を失った人たちの生き方を侮辱することにつながるといわれますが、どのような状態になっても生きていたいという人、尊厳ある死を選ぶ人、どちらも本人の意思であるなら尊重すべきだと思います。
ただ、「自分がどう死ぬべきか」を考えることも大切なことだと思います。
自律を失った人はもう自分の意思を示すことはできません。そうなる前に自分の死を決めておく、それこそ尊厳ある生き方だと思うのですが…。