秋の空を見ていると飽きが来ない。刻々と変化する雲を眺めるのは楽しい。
自然の美しさにかなうものはない。
わが購読紙掲載の『おじさん図鑑』を毎週楽しみにしている。飛鳥氏のウイットに富んだ話や、ちょっとだけ皮肉の効いた辛口な話に思わずひきこまれてゆく。
10月28日に掲載された「思いは黙って行動すべき」である。
災害とか事故などで多くの人が被害を受けたりすると、必ず「被災者と寄り添って、痛みを共有する」というような言葉が飛び交う。あるいは、個人的な事故や生活上の悩みについても、同様の美しい言葉が標語のように使われる。
ひねくれたことを言うようだが、他人の痛みに「寄り添う」ことも、「共有する」ことも、誰もできはしない。人の痛みは、想像したり察したりはできても、その人と同じ痛みを自分が経験することは不可能だ。これは体の痛みも、心の痛みも同じこと。
だいたい、「寄り添う」ってなに? 具体的に肩を抱いて励ますわけではなく、言葉上のことだけではないのか。憂い顔で「お気の毒にねえ」と声を掛けるのと違いはあるのか。
他人の心身の痛みをわがことのように心配し、同情するのは勝手だが、「寄り添って、痛みを共有する」といった美しい言葉を無神経に使って欲しくない。
思いは言葉ではなく行動で示すべきだろう。「寄り添い」「痛みを共有」したいのなら、ボランティアに参加するとか、募金に応じるなど、自分も心身に痛みを伴うことで本物の思いとなる。そのとき言葉は要らない。黙ってやる。
「思いは黙って行動で示すべき」、まったく同感である。これが本当の思いやりというものだろう。だが言葉で人に同情することはできても行動で示すことは難しい。だれしも良いことをしたら人に褒められたいし、自分の善行をアピールしたくなる、それが人の常である。たとえ善行を積むことが自己満足であっても、それができる人は立派だと思う。
皇族方がよく「国民に寄り添いながら…」と言われる。皇族という「特別な存在」の人が言うのにはそれほど違和感は覚えないが、一般の人が「被災地の人に寄り添って…」と言うのを聞くと、何だか尊大不遜という感じがする。とくに政治家や成金的な金持ちが言うとなおさらだ。私もひねくれ者だから飛鳥氏の言うことは至極ごもっとも、胸にストンと落ちた。
昨今、大きな社会問題となっている「子どもの貧困」や、ユニセフの公共CMに出てくる子どもたちや親から虐げられている子どもたち、それらのニュースを見聞きするたびにいつも思う。「もし私に有り余るお金があれば絶対に寄付するのに…」と。でもこれは間違いで、本当は有り余る人がだす大金よりも、乏しい財布から出す100円ほど尊くて価値のあるものはない、とある本に書いてあった。いつかミニロトが当たったら、黙って行動で示したいと思っているけど、その前にバチが当たりそう!
sirousagiでも、黙って募金くらいはロト賞金が無くても身銭をきりますよ。
アフガンで銃撃された中村哲氏の
「水が善人と悪人を区別しない様にだれとでも協力し合い行き場の無い人々が人間らしく生きられるように」
世界中の人々に知って貰いたい真の行動者の言葉です。
有言実行も輝いていますね。
まあ悪人の善行というのはないでしょうが、黙ってやるかどうかは本人の心がけ次第。それでもだれかさんの宇宙旅行計画を聞けば、あれだけあれば…と思いますね。やっかみですが…。
私も阪神大震災や東日本大震災などにはウン万円の募金をしました。が、郵便局から少額の寄付金を送るのは気恥ずかしい気がして、街頭募金なら気軽に協力できますが田舎では見かけません。
きれば大金を、それか少額でも継続で寄付したいという思いはあります。が、哀しいかな年金生活の身、ミニロトしか当てはありませんので…。