山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

屋代島周遊

2022年07月29日 19時46分26秒 | のんびり屋代島
大江がテーマなら御承知のように山口県文書館が資料としてはピカイチですね。
大島郡全体もこちらが史料については国内最大となります。
大島郡には殆ど残っていません。

景浦会長時代と現代では情報量は全く違いますので景浦会長の勘違いはあるかも知れませんが
伊予中世史を按ずるに現代のは量はあるのですが、質が悪いのです。

所謂、流布本を孫引きして活字本にしているものが多く、玉石混交本となります。
伊予河野家も「豫章記」と「豫陽河野家譜」の孫引き編纂で現在主流となっています。

景浦時代は色んな原本を猟収しています。
御園生先生も足で原本を漁っています。問題はこれらの原本の行方が現在分らないことです。

謄写を許されたものは「伊予史談会」に保管されていますが、謄写許可が出ていないものは現在所在不明
です。
家譜や伝来古文書は現在でも旧家においては門外不出であり見ることはできません。
究極の個人情報となるからでしょう。

チラと特別に見せてもらったものの中に歴史的価値があるものが存在します。

私も伊予中世史に興味がありますので、河野家は避けて通れません。

大正時代には有った「河野家正統譜図」を探していますが、ご存じありませんか?

これによると真贋はともかく弘法大師空海が違法帰国した時に世話をしたのは伊予・越智益男とその子
真海(實勝)とあり、越智益男親子時代が806年前後と知れます。この時代屋代島は越智家の支配が及んで
いたと思われます。

また別の条に於いて、越智益男から下ること六代、越智好方の時に純友の乱が起こっています。

また時代が下り、越智が河野姓となったとするのは越智親晴が河野親経と為し、男児無き故
1063年に伊予守となった源頼義に服従したことにより、頼義の庶子を養子とし河野親清とした
ことにより発生したとする。この縁組が源家との縁戚となり、後の頼義の末裔、源頼朝により
「西国では河野家しか頼りにできぬゆえ・・・」の手紙に繋がったものと思えます。
現在の史家はこの手紙は「偽書」としていますが、頼義の子が河野家に入れば「偽」ではありません。

この内容は「河野家正統譜図」のほか「尊卑文脈」「甲斐信濃源氏要領」にも記され、「築山本河野家譜」
にも軽く触れられていますので史実なのでしょう。

安下庄の「甲の山」と云うところがあります。これは以前、伊予河野家が出城として築城した「河野の山」
と伝承されています。

元大島郡の平郡は河野家分家浅海家が統治していましたので、安下庄にも河野関係者が住んでいたでしょう。

また別の伝承には、菅原道真公が大宰府へ流される途中和田村小泊に停泊したと伝え、この饗応をしたのが
河野家であったとし、道真の子を一人、河野家に預けたとします。この子が、河野家氏社、大山祇神社の
祇官、大祝家を継いだともします。こちらは裏がとれません。


●周防大島は狭いですからボランティアガイドを付ければ効率よく沢山廻れると思います。
ボランティアガイドグループは松本さんに頼めばなんとかなると思います。
ボランティアですから1日2千円前後だったと思います。
他に伊予河野家の屋代島史跡に詳しい方は周防大島郷土大学奥井紀舟氏ですが、こちらも
松本さんルートで調整すれば説明してくれる可能性があります。

私の認識している屋代島の河野関係史跡は大雑把に記しますと
大島瀬戸から西廻りで

①屋代石井の龍心寺(元大龍寺) 河野家海賊衆村上武吉系菩提寺、本堂裏に屋代へ移って以降の
                歴代の墓群と本堂内に村上宗家歴代の位牌群と村上元吉の家老
                である大野直政家の位牌群があります。本堂の屋根には村上家
                遠祖北畠家(村上源氏)の家紋「笹竜胆」が掲げられています。

②同一境内に「大友様」     こちらは村上家家老大野家の大野直虎のお堂でそれと宿坊の間
                に歴代大野家の墓群があります。側の長い石段を上ると村上家
                が建立した神社があります。

③等覚院(龍心寺の隣)     こちらは村上家老大野家本家の大野直一が再興した寺です。
                大野家は伊予久万城主で河野牛福通直時代は当主大野直昌が
                河野家筆頭家老でした。通直と共に竹原に落ちここで亡くなり
                ました。前述の大野直政は大野直昌の甥であり、三島村上分裂
                元となった秀吉との姫路会談で能島村上代表として会議に望み
                河野家、毛利家を裏切れないとして秀吉になびきませんでした。
                この会談に来島村上は秀吉についたため、河野家滅亡に繋がり
                来島は大名に取りたてられました。

③屋代の村上田屋(西屋代)   これは村上図書家が毛利から後に屋代を賜った時の田屋(屋敷)で
                現在他人が住んでいますが家の構えは変わってはいません。
                ただこの家は郷土史家程度しか現在は知りませんのでパスでも
                構わないでしょう。

④日本ハワイ移民資料館     西屋代にあるこの資料館はハワイ帰りの人の家を資料館にしたもので
                官民移民でハワイに渡った人の人物検索ができます。河野や得能
                柳原を打ちこみますと河野家DNAが出てくるかも。民間移民はヒット
                しません。

⑤甲の山(河野山)       周防大島町橘庁舎のある小高い山。この一角が中世の伊予河野家支城
                があったとされる甲の山(河野山)です。
                目の前の安下庄湾が慶長6年に竹原から落ちてきた村上や河野残党が
                上陸した所です。幕末には長州征伐の屋代口の戦いで松山藩兵が上陸
                したところでもあります。

⑥帯石観音・譜門寺       安下庄から山側に登れば安産の帯石観音へ行けます。昔はとことこ歩いて
                登るしか手がなかったのですが現在は本堂前まで車でいけます。マイクロ
                バスはどの史跡もお勧めできません。
                住職は話し好きなのでいらっしゃればお話が聞けると思います。
                寺伝にはありませんが、私は越智一族橘家流楠正成(大楠公)が
                関係する寺と見ています。什器宝物は幕末の松山藩兵の放火により焼失
                してしまいましたが、楠家の家紋「菊水紋」が寺紋であり、同時代の
                南朝の重臣千種忠顕が1333年書いた「金泥法華経八卷」が奉納されて
                おり、これは村上家遠祖北畠顕家が、同族千種忠顕の伯耆船岡山で書写
                した法華経八卷を北朝討伐を祈願して奉納したものと思われます。
                大正時代まではそのように伝承されていますが、現住職はごご存じない
                ようです。他にこの寺には1663年豊後国 久留嶋主膳、地家室で破船し
                死亡しますが彼の墓はここにあります。久留島は姫路会談以降河野家
                本流を主張するのは周知の通りです。
                この寺の裏山を少し歩くと「天狗参り」とされる場所 に辿りつきます。
                ここから見える範囲全部が河野水軍の縄張り全部です。真下が大江が
                支配した島末庄と安下庄で後ろが屋代庄です。
                遠く大洲方向に南北朝時代の河野通盛時代の激戦地大水無瀬島 小水無瀬                島が見えます。


⑦沖屋室島           松本さんの民宿はこちらにあります。
                かっては海賊島で、天正13年の河野家断絶の「第一次河野崩れ」の時
                河野家臣団が渡海してきた島でもあり。海上交通の要所でもあり江戸期
                には参勤交代の宿舎として泊清寺が使われていました。この寺も河野家
                遺臣によって創建されています。この寺に「檀家家紋帳」が残されて
                いると聞きます。住職は町会議員を兼ねていますが、松本さんを通せば
                この「家紋帳」は見れると思います。河野家家紋「折敷縮三文字紋」が
                見いだせのではないかと思われます。この家紋を伝えるのは家臣団か親族
                です。

⑧小泊             伊予河野家が大宰府に流されて行く菅原道真公を見送くった最後の湊と
                されます。余談ながらこちらは作詞家星野哲郎の生誕地です。星野家は                 代々神職を務めており確か村上家由来の筏八幡の神職は哲郎氏の妹だった                かなと記憶します。江戸期の文書にも星野家は神職家としてあちこちの神                社に奉職しています。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿