因幡様から伊予河野家末裔たちの大島消息を聞かれました。
よって、下記の如く答えました。添削等お願いします。
河野家末裔がいまどこに住んでいるかは把握しておりません。
現在は大島郡そのものが限界集落そのもので、毎月人口と世帯数が減りつづけています。
かってあった家も空き家だらけとなってきています。
人の変遷は現在では電話帳を手掛かりにしていますが、大正以降を時系列に見ようとすれば
高校の同窓会名簿が便利です。
大島の普通高校は久賀高等学校と安下庄高等学校を統合した大島高等学校同窓会名簿が便利です。
こちらは原則、大島郡全域を学区としています。こちらは今度行かれる時に事前に頼んでおけば
だれか持っているでしょう。
もう一つは柳井地区の高等学校の同窓会名簿でしょう。こちらは一番難しかった、柳井高校が
お勧めでしょう。この高校の学区は旧大島町、旧玖珂郡、平郡、田布施町、柳井市ですので
ほぼ村上、河野の落ち着き先を網羅します。河野牛福通直の嫁は田布施の大野毛利家へ牛福
自害のあと再嫁しています。大野毛利家の家臣末裔が、国際連盟を脱退した時の全権大使
松岡洋右となります。同じ町内には、岸信介総理、佐藤栄作総理が出ています。
忘れてました、伊藤博文初代総理大臣も町内会です。また岸の孫が現総理となります。
ご承知のように伊藤(拝志)博文は伊予河野家末裔、河野拝志(はやし)家出身と自負しています。
彼が朝鮮で暗殺される直前に松山を訪れ、「遠く先祖の地に帰ってまいりました」と演説したのは
有名ですね。
あと大島には河野柳原氏もいます。
河野一柳は中部地区では「いちやなぎ」と発音しますが、大島地区では「いちりゅう」と発音します。
土居姓は少ないのですが、土井と変名している可能性があります。土井ならけっこういます。
現在末裔たちが商売しているのは、廃藩置県により武士で無くなり、捧録が入らなくなってからです。
「士農工商」とされている時代に末端の「商」を営むのは潔しとはしませんでした。
大島でも「浮米(サラリー)ではなく領地を持っていた士分はなんとか飯ぐらいは食べれましたが、
より出世を求めて長男家(宗家)はどんどん東京に移住していきました。
毛利家直臣は東京芝の毛利家事務所を目指し毛利家は勤め先を割り振りました。
明治政府は薩長の連合体ですから、それぞれが地元から名家の若者に上京を促しこれらが
呼応しました。いわゆる薩長藩閥政治ですので、薩長土肥以外は出世のおこぼれをあづかることは
少なかった。山口県の特殊な例です。未だに、山口県の高校生は地元や関西ではなく
東京の大学を目指す傾向にあります。
和田の村上一学家は「四境の戦い」で一隊を率いますが、上京せずに地元の残りました。
宗家の村上図書家はしばらく大島にいましたが、家を引き払って上京しますのでその後
子孫がどうなったかわかりません。大切な文書はこのとき持っていったと思われますが
行方がわかりません。
当主村上兼助公は毛利家からの養子です。
彼が書いたものは「東大史料編纂所」に納められています。
屋代源三
よって、下記の如く答えました。添削等お願いします。
河野家末裔がいまどこに住んでいるかは把握しておりません。
現在は大島郡そのものが限界集落そのもので、毎月人口と世帯数が減りつづけています。
かってあった家も空き家だらけとなってきています。
人の変遷は現在では電話帳を手掛かりにしていますが、大正以降を時系列に見ようとすれば
高校の同窓会名簿が便利です。
大島の普通高校は久賀高等学校と安下庄高等学校を統合した大島高等学校同窓会名簿が便利です。
こちらは原則、大島郡全域を学区としています。こちらは今度行かれる時に事前に頼んでおけば
だれか持っているでしょう。
もう一つは柳井地区の高等学校の同窓会名簿でしょう。こちらは一番難しかった、柳井高校が
お勧めでしょう。この高校の学区は旧大島町、旧玖珂郡、平郡、田布施町、柳井市ですので
ほぼ村上、河野の落ち着き先を網羅します。河野牛福通直の嫁は田布施の大野毛利家へ牛福
自害のあと再嫁しています。大野毛利家の家臣末裔が、国際連盟を脱退した時の全権大使
松岡洋右となります。同じ町内には、岸信介総理、佐藤栄作総理が出ています。
忘れてました、伊藤博文初代総理大臣も町内会です。また岸の孫が現総理となります。
ご承知のように伊藤(拝志)博文は伊予河野家末裔、河野拝志(はやし)家出身と自負しています。
彼が朝鮮で暗殺される直前に松山を訪れ、「遠く先祖の地に帰ってまいりました」と演説したのは
有名ですね。
あと大島には河野柳原氏もいます。
河野一柳は中部地区では「いちやなぎ」と発音しますが、大島地区では「いちりゅう」と発音します。
土居姓は少ないのですが、土井と変名している可能性があります。土井ならけっこういます。
現在末裔たちが商売しているのは、廃藩置県により武士で無くなり、捧録が入らなくなってからです。
「士農工商」とされている時代に末端の「商」を営むのは潔しとはしませんでした。
大島でも「浮米(サラリー)ではなく領地を持っていた士分はなんとか飯ぐらいは食べれましたが、
より出世を求めて長男家(宗家)はどんどん東京に移住していきました。
毛利家直臣は東京芝の毛利家事務所を目指し毛利家は勤め先を割り振りました。
明治政府は薩長の連合体ですから、それぞれが地元から名家の若者に上京を促しこれらが
呼応しました。いわゆる薩長藩閥政治ですので、薩長土肥以外は出世のおこぼれをあづかることは
少なかった。山口県の特殊な例です。未だに、山口県の高校生は地元や関西ではなく
東京の大学を目指す傾向にあります。
和田の村上一学家は「四境の戦い」で一隊を率いますが、上京せずに地元の残りました。
宗家の村上図書家はしばらく大島にいましたが、家を引き払って上京しますのでその後
子孫がどうなったかわかりません。大切な文書はこのとき持っていったと思われますが
行方がわかりません。
当主村上兼助公は毛利家からの養子です。
彼が書いたものは「東大史料編纂所」に納められています。
屋代源三
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます