因幡太夫様より、島末庄と大江氏について質問を受けました。
下記の通り答えました。
因幡前司廣元使者自京都到來。申云。今月三日。熊野參詣所進發也。而其精進中。蒙御感仰者。閑院并六條殿修造已下。於事勤節。殊神妙云々。
凡歡喜之涙難抑。此仰。偏陰徳之所致歟云々。次廣元知行周防國嶋末庄事。女房三條局捧折紙。所望之間。爲師中納言之奉行。被尋知行由緒之間。
注子細。進状畢。定直被仰下歟。爲被知食廣元言上之樣。進彼状案文之由云々。
周防國嶋末庄地主職事
右件庄者。彼國大嶋之最中也。大嶋者。平氏謀反之時。新中納言〔知盛〕搆城居住。及旬月之間。嶋人皆以同意。自爾以降。爲二品家御下知。
件嶋被置地主職之許也。毎事守庄務之例。更無新儀之妨。被尋搜之處。定無其隱歟。但於別御定者。不及左右候。早随重仰。可進退候
は
周防国島末庄の地主職について
因幡前司大江広元の使いが、京都から到着して申し上げました。今月の三日に、法皇が熊野詣に出かけようとしました。しかし、
その禊の期間中にお気に入りの言葉をかけられました。院の御所閑院と六条殿の修理などに良く勤めてくれたので、殊勝であるとの事でした
このようなお言葉を戴き喜びの涙を押えきれません。このお言葉も、ひたすら影に働いた力量によるものでしょうか。次ぎの話題は、
大江広元の領地の周防国島末庄について、院の庁の官女三条局が、手紙で欲しいと訴えたので、師中納言吉田經房が院の命令で、
所領になった経緯を質問してきたので、事情を書き出した由緒書きを差し出しました。きっと頼朝様に直接話があるでしょうから、
大江広元が言上した内容をお知らせするために、その写しをお送りいたしました。
右の荘園については、周防の国の大島の真ん中にあります。大島は、平家合戦のとき、新中納言平知盛が、城郭を構えで居住して
数ヶ月以上居たので、島中の武士が皆従ってしまいました。それ以来、頼朝様の命として土地の所有者としての地主の職だけを認めていました。
何事も、本来の荘園の義務である年貢の納付を守って、先例を崩すような横取りはしませんでした。調べていただければ、
ちゃんと分かるはずです。但し、新たに院から注文があれば、どうこう言わずに、早々に仰せに従いますので、ご命令ください。
と理解しました。
知盛のあと頼朝様の命で地主の職だけは認めてもらっていたとする主語を廣元と理解しました。
その後、女官三条局の欲しがった島末の庄はその後名目上は高野山へ寄進され地主職に大江廣元が補任されました。
大江氏は下向することがなかったので島末庄の代官(当時は代官と言わず下司職と云う)藤原判官親康されます。
下司職は藤原家に世襲されました。下司職のことを公文職とも言います。親康のの孫は光親は東西兼帯惣公文に
補されていますので、周防大島はその後、東西に分かれていたことになります。
失礼!周防大島が東西に分かれていたわけではなく島末の庄が東西に分かれていたの間違いでした。
他に廣元は屋代庄、安下庄の地主職を兼ねていました。今、島末には西方の地名は残っていますが、
東方なる地名は消えてしまっていますが、大よそ旧東和町の反対側と見られています。
大きな庄は分割して統治していたようです。ちなみに屋代庄は北と南とに分かれており、北方は
今の屋代川の小田側、南方は屋代川の南側でそれぞれ公文職は小田三郎、屋代源三となっています。
小田の地には「公文所」と呼ばれる地名が現在もありますので、それぞれに公文(役所)があったと
と思われます。
尚、久賀と日前(ひくま)、油良は庄ではなく公領を意味する「保」と呼ばれていました。
よって倉庫を意味する「保」ではありません。
宮本常一先生は保は湊を意味しているのではないかとしますが、山の中でも「保」はありますので
湊を意味するものではないと思われます。確かに上記の3つの「保」は湊でもありますが。
ほぼ承久まではこのような状態と見られます。後世、大内氏にとって代わられます。
又、長崎氏は初代の公文職の藤原家が長崎と言う所に居住したので、孫の代以降長崎氏と
なっているだけで同一家となります。
本土への飛び地はいつのころからか知りませんが、大畠遠崎から神代、由宇あたりまでが最大飛び地です。
これは郷が郡となったころと思われます。今はそれぞれ岩国や柳井市に編入されています。
由宇や神代はその前は玖珂郡となっています。
よって、大島郡から切り離されたのは
①大島郡柱島(現在岩国市)
②大島郡由宇(同)
③大島郡神代(同)
④大島郡大畠(柳井市)
⑤大島郡平郡島(柳井市)
等があり、大畠遠崎の僧性」は本により、大畠の人とか柳井の人とか書かれていますが、
彼の時代は大島郡遠崎でし。
平郡島は河野家末裔、浅海氏が統治したところです。昔は浅海君だらけでしたがこちらも
過疎により昔も面影はありません。
下記の通り答えました。
因幡前司廣元使者自京都到來。申云。今月三日。熊野參詣所進發也。而其精進中。蒙御感仰者。閑院并六條殿修造已下。於事勤節。殊神妙云々。
凡歡喜之涙難抑。此仰。偏陰徳之所致歟云々。次廣元知行周防國嶋末庄事。女房三條局捧折紙。所望之間。爲師中納言之奉行。被尋知行由緒之間。
注子細。進状畢。定直被仰下歟。爲被知食廣元言上之樣。進彼状案文之由云々。
周防國嶋末庄地主職事
右件庄者。彼國大嶋之最中也。大嶋者。平氏謀反之時。新中納言〔知盛〕搆城居住。及旬月之間。嶋人皆以同意。自爾以降。爲二品家御下知。
件嶋被置地主職之許也。毎事守庄務之例。更無新儀之妨。被尋搜之處。定無其隱歟。但於別御定者。不及左右候。早随重仰。可進退候
は
周防国島末庄の地主職について
因幡前司大江広元の使いが、京都から到着して申し上げました。今月の三日に、法皇が熊野詣に出かけようとしました。しかし、
その禊の期間中にお気に入りの言葉をかけられました。院の御所閑院と六条殿の修理などに良く勤めてくれたので、殊勝であるとの事でした
このようなお言葉を戴き喜びの涙を押えきれません。このお言葉も、ひたすら影に働いた力量によるものでしょうか。次ぎの話題は、
大江広元の領地の周防国島末庄について、院の庁の官女三条局が、手紙で欲しいと訴えたので、師中納言吉田經房が院の命令で、
所領になった経緯を質問してきたので、事情を書き出した由緒書きを差し出しました。きっと頼朝様に直接話があるでしょうから、
大江広元が言上した内容をお知らせするために、その写しをお送りいたしました。
右の荘園については、周防の国の大島の真ん中にあります。大島は、平家合戦のとき、新中納言平知盛が、城郭を構えで居住して
数ヶ月以上居たので、島中の武士が皆従ってしまいました。それ以来、頼朝様の命として土地の所有者としての地主の職だけを認めていました。
何事も、本来の荘園の義務である年貢の納付を守って、先例を崩すような横取りはしませんでした。調べていただければ、
ちゃんと分かるはずです。但し、新たに院から注文があれば、どうこう言わずに、早々に仰せに従いますので、ご命令ください。
と理解しました。
知盛のあと頼朝様の命で地主の職だけは認めてもらっていたとする主語を廣元と理解しました。
その後、女官三条局の欲しがった島末の庄はその後名目上は高野山へ寄進され地主職に大江廣元が補任されました。
大江氏は下向することがなかったので島末庄の代官(当時は代官と言わず下司職と云う)藤原判官親康されます。
下司職は藤原家に世襲されました。下司職のことを公文職とも言います。親康のの孫は光親は東西兼帯惣公文に
補されていますので、周防大島はその後、東西に分かれていたことになります。
失礼!周防大島が東西に分かれていたわけではなく島末の庄が東西に分かれていたの間違いでした。
他に廣元は屋代庄、安下庄の地主職を兼ねていました。今、島末には西方の地名は残っていますが、
東方なる地名は消えてしまっていますが、大よそ旧東和町の反対側と見られています。
大きな庄は分割して統治していたようです。ちなみに屋代庄は北と南とに分かれており、北方は
今の屋代川の小田側、南方は屋代川の南側でそれぞれ公文職は小田三郎、屋代源三となっています。
小田の地には「公文所」と呼ばれる地名が現在もありますので、それぞれに公文(役所)があったと
と思われます。
尚、久賀と日前(ひくま)、油良は庄ではなく公領を意味する「保」と呼ばれていました。
よって倉庫を意味する「保」ではありません。
宮本常一先生は保は湊を意味しているのではないかとしますが、山の中でも「保」はありますので
湊を意味するものではないと思われます。確かに上記の3つの「保」は湊でもありますが。
ほぼ承久まではこのような状態と見られます。後世、大内氏にとって代わられます。
又、長崎氏は初代の公文職の藤原家が長崎と言う所に居住したので、孫の代以降長崎氏と
なっているだけで同一家となります。
本土への飛び地はいつのころからか知りませんが、大畠遠崎から神代、由宇あたりまでが最大飛び地です。
これは郷が郡となったころと思われます。今はそれぞれ岩国や柳井市に編入されています。
由宇や神代はその前は玖珂郡となっています。
よって、大島郡から切り離されたのは
①大島郡柱島(現在岩国市)
②大島郡由宇(同)
③大島郡神代(同)
④大島郡大畠(柳井市)
⑤大島郡平郡島(柳井市)
等があり、大畠遠崎の僧性」は本により、大畠の人とか柳井の人とか書かれていますが、
彼の時代は大島郡遠崎でし。
平郡島は河野家末裔、浅海氏が統治したところです。昔は浅海君だらけでしたがこちらも
過疎により昔も面影はありません。
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